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裁かれるのは誰か?【裁判員のための法律2】

日本人は検察官を盲目的に信頼し、検察官の言うことを疑いもせず、なかでもマスコミは、特に、新聞やテレビは検察が調べて発表したことを最初から真実だと決めてかかる。民主主義を理解していない証拠です。

【設問:4】

刑事裁判とは、誰を裁くためのものか?

×容疑者、つまり被告を裁くためのもの。
×犯罪者を裁くためのもの。
○行政権力の代理人である「検察官」を裁くためのもの。

裁判は「真実を明らかにする場」ではありません。そもそも「近代裁判」では、「真実の探求」なんて本来の目的ではないのです。極論すれば真実なんてどうだってよいのです。「事件の真相など知る必要もない」のです。従って、日本を代表する”悪書”は「大岡越前守」とか「遠山の金さん」なのです。「遠山の金さん」は、

●犯罪捜査をして
●証拠を集めて
●容疑者を捕まえて
●判決を下して
●場合によっては弁護まで行う、

刑事、検事、裁判官、弁護士の「四役兼任」というわけです。そして「遠山の金さん」は、

●決して悪いことはしない
●神様のように全知全能で
●悪事を見通す人

現実にはそんな人はいません。もし、極悪非道な金さんがいて、何の罪もない無実の人を片っ端から逮捕・告訴して、おまけに「裁いて」しまったら、暗黒裁判に他なりません。ですから遠山の金さんのような人がいてもらっては困るのです。

ところが、日本人は今でも、江戸時代さながら「お上」を尊敬していて、検察官は悪を追及する「善玉」だと信じて疑わない。遠山の金さんと検察官は一緒だと思っている。実におめでたい人たちです。国家権力をもってすれば、どんな証拠でもでっちあげられるし、拷問にかけて、ウソの自白を引き出すことも簡単にできます。

少なくとも、誤認逮捕などはしょちゅう行われているに違いない、つまり、「人間は間違うかもしれない」存在である。という前提で考えるのが「近代裁判」なのです。つまり、権力の横暴から「被告」を守らなければならないのです。

小室直樹著「痛快!憲法学」より
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もちろん裁判員は遠山の金さんのように「四役兼任」などしません。裁判官の役割をするわけですが、実は裁判官をも批判する立場なのです。これは遠山の金さんですらしないことです。なぜなら遠山の金さんは決して幕府批判はしないでしょうから。

つまり裁判員は遠山の金さんの上を行くのです。いかに裁判員が痛快無比でストレス解消に持ってこいかが分かるでしょう。こんな面白い裁判員をやりたくないと言う人がいるのが信じられません。私などタダでもやりたいくらいです。


遠山の金さん
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

遠山の金さん(とおやまのきんさん)は、江戸町奉行・遠山金四郎景元を主人公にした時代劇。

講談・歌舞伎で基本的な物語のパターンが完成し、陣出達朗の時代小説「遠山の金さん」シリーズなどで普及した。

「水戸黄門」「暴れん坊将軍」と同様、「気のいい町人」が最後に「実は権力者」の正体を明かして悪を征し、カタルシスを得る。

事件を「奉行の景元」が「遊び人の金さん(正体を知らない岡っ引等には“金の字”と呼ばれていたりする)」として自ら潜入捜査を行い、事件の真相と黒幕を突き止める。その後、被害者と共に、あるいは単独で悪人の屋敷に乗り込み、突き止めた悪事の数々を言い立てる。ここで悪人たちは金さんを取るに足らぬ小物と思い込んでいるため悪事のすべてを得意げに自慢をし、金さんとその同行者をまとめて抹殺しようとする。

ここで金さんは片肌脱いで、桜の彫り物を見せつける(梅之助主演の初期の版では片肌ではなく両肌脱いでおり、テーマ曲でもそのように歌っていた)。「この桜吹雪を見ちまったらおしまいよ!!」と放ち、この後悪人たちと入り乱れてチャンバラとなるが、なぜか町人で素手の金さんに悪人たちはかなわない。(刀などの得物を金さんに奪われて峰打ちで返り討ちになる場合もあり。)この混乱の中奉行所の者たちが悪人を捕縛するためその場に駆けつけるが、金さんは彼らに姿を見られないよう、到着前に立ち去る。捕縛された悪人たちはその後お白洲に曳き出され、吟味に掛けられる。

「北町奉行・遠山左衛門尉様、ご出座~」の声と太鼓と共に登場する。白洲には「至誠一貫」と書かれた額がある。

遠山「これより**について吟味を致す、一同の者面を上げい」「さて○○(悪人)、××(罪状)とあるが相違無いか」とお決まりの台詞を言う。
白洲で被害者は悪行を訴えるが悪人は犯行を否認する。

被害者「遊び人の金さんなら全て話を知っています。金さんを呼んでください」
悪人「金さん?そんなどこの馬の骨とも判らない遊び人など全く存じません。証拠がないのなら釈放してほしい」「名奉行と言われた遠山様が、確たる証拠も無いのに我らを罪人扱いとは…」「その金さんなる遊び人はどこにおりますかな?お白洲に連れてきて頂きたい、もっとも居たとしての話ですが」等と徹底的におちょくり、しらばくれる。

悪人の仲間の幕府高官が陪席している場合、その高官が「遠山殿、これは全く意味のない白洲ですぞ。」「**奉行である身供をここに座らせるとは、御身のお立場も危ういですぞ」等と、とぼけた様に悪人の無罪を主張したり、圧力をかけたりする。

ここで他の悪人の取り巻きが「金さんを出せ!」「出してみろ!」と怒鳴る。被害者は泣きそうになる。そして取り巻きの罵声が最高潮に達した時、奉行が「やかましぃやい! 悪党ども!!」「おうおうおう、黙って聞いてりゃ寝ぼけた事をぬかしやがって!」などと、今までの謹厳な口調とはガラリと変わった江戸言葉で一喝する。

奉行「そんなに会いてぇなら会わせてやる。この桜吹雪に見覚えがねぇとは言わせねえぜ!(この遠山の桜吹雪、散らせるもんなら散らしてみろぃ!など)」と片肌脱ぐとそこには金さんと同じ桜の彫り物(この時「金さん」が桜吹雪を見せている時の映像を回想の様に流す事もある)。幕府の高官が悪人の仲間の場合で、白洲に陪席している場合、その高官が「おのれ遠山!」などの言葉とともに遠山に斬りかかろうとし、奉行に撥ね返される(大体、長袴で蹴り倒される)。他の悪人は「ははぁ、畏れ入り奉りました!」と観念する。被害者は「ああ、金さん…」と小声で言う。

一同、全てを“金さん”こと奉行に見られていた事を知って愕然となり、悪人は観念する。(ここで元の格好に戻り、判決を言い渡す)主犯には大抵「(市中引き回しの上)打ち首獄門」または「磔獄門」、共犯は「終生遠島」、高官には「御公儀(評定所・**藩)より、追って極刑(切腹)の沙汰があろう」と言う。その後「引っ立てい!」となる。悪人の手下はこの時もジタバタしている。

悪人が連れ出された後、「さて△△(被害者)…」となり、被害者が「お奉行様とも知らずご無礼を…」などと言い、平身低頭する。被害者が軽微な犯罪を犯している場合、大概「江戸十里四方所払い(つまり江戸市中からの追放)」「寄場送り」などの温情判決を下す。

最後に、小声で「金さん」になり「達者で暮らすんだぜ」「お父っつぁんを大事にしなよ」などと温かい言葉をかけ(無罪になった場合は「俺が金さんって事は内緒にしておいてくれよ」などとも言う)」、「これにて一件落着」で全てが終わる。

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エンゲル係数
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

エンゲル係数(エンゲルけいすう、Engel's coefficient)は、家計の消費支出に占める飲食費のパーセントのこと。一般にこの係数が高いほど生活水準は低いとされる。

ドイツの社会統計学者エルンスト・エンゲルが1857年の論文で発表した。これをエンゲルの法則という。エンゲル係数の高低が、生活水準を表す指標となっているが価格体系や生活慣習の異なる社会集団の比較には必ずしも役だたない。

日本 25.4%
アメリカ 19.3%
カナダ 23.5%
イギリス 24.9%
イタリア 24.4%
トルコ 35.5%
韓国 32.9%
スペイン 26.9%

総務省統計局 『世界の統計2008』 "13-補2 家計の収入"より
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上記によると日本のエンゲル係数は諸外国と比べてさほど高くないように見える。つまり統計では日本の生活水準は低くないということだ。

だがここに統計のトリックが有る。この統計は日本全体のエンゲル係数であって地域別ではない。都市部と農村部で分けてエンゲル係数を取るべきだ。なぜなら農村部はコメを自給できるが、都市部の労働者はコメを買わねばならないので、都市部のエンゲル係数は高くなることが予想されるからだ。

さらにエンゲル係数だけで貧しさを計ることはできない。人間が生きていくのに必要なものは食料と住居であるから、収入に占める住居費の割合も計算すべきである。つまり家計の消費支出に占める飲食費と家賃の合計の割合をもって貧しさの指標とすべきである。これを仮にマル係数と呼ぶ。

マル係数が高いほど貧しい。そしてマル係数は都市部の方が高いと予想される。なぜなら都市部では家賃を払っている人が多く、住宅ローンを抱えている人も多いからだ。そして都市部では食料を買わねばならない。それに対して農村部では持ち家が多く食料も自給できる。従ってマル係数は都市部の方が高い。

国際比較すれば、日本の都市部のマル係数は高いと予想される。なぜなら日本は食糧の関税が高いからだ。例えばコメの関税は800%である。さらに家賃が高いだけでなく家賃の補助が無い。西欧諸国では低所得者には家賃補助が有る。従って日本の都市労働者は諸外国の都市労働者と比べて貧しいと予想される。

この事の意味する事は、農村部よりも都市部の低所得労働者の為に重点的に予算配分すべきだということである。具体的には家賃補助であり、食料クーポンの配布などである。

通商破壊すればイギリスは降伏するという前提です。甘いと言われればそうですが、それは真珠湾攻撃すればアメリカに勝てるという考えだってそうなのですから。

当時の状況は海軍が石油が有る内に何かしないことには許さない状況だったということです。真珠湾を攻撃するか、どこか他の所を攻撃しないことには収まりが着かなかったのです。
アメリカは日本に真珠湾攻撃されて、自分のけつを蹴っ飛ばされなければ、参戦できないような臆病者、卑怯者の国なのです。ドイツが有利になったくらいで参戦しませんよ。
ルーズベルトはやる気満々でしたが、アメリカはドイツやイタリアのような独裁国家ではなく、民主主義国ですから、議会や国民が戦争に賛成してくれなければ参戦できません。

そもそもルーズベルトはヨーロッパの戦争に参戦しないことを公約にして大統領に当選したのです。ですからルーズベルトにできることはレンドリースが限界だったのです。
第一案は真珠湾攻撃、
第二案はマルビナス攻撃、

として第一案だとアメリカとの戦争は必然となり、勝てる見込みが無い。
しかし第二案ならイギリスとの戦争だけなので、勝てる見込みが有ると言って説得するのです。

負けた時の話をするなら、アメリカと戦争して負けた時の方がひどくなると言えば良いのです。

真珠湾攻撃しておいて、早期講和できるという考えが甘いということです。
ドイツやイタリアを支援する為、日本はイギリス領マルビナスを占領する。と言えば良いのです。事実そうなのですから。

そうすれば、ドイツやイタリアは、もしアメリカが日本に宣戦布告するなら、ドイツとイタリアもアメリカに宣戦布告すると言ってくれるでしょう。

そうなればアメリカ国内のドイツ系やイタリア系の人達が日本に宣戦布告することに反対してくれるはずです。そしてルーズベルトは日本に宣戦布告できなくなるのです。
ですから戦争はするのです。ただし真珠湾のアメリカ軍ではなく、マルビナスのイギリス軍相手です。
連戦連勝を期待するような作戦は甘すぎです。マルビナスの方が成功する可能性が高いですよ。たとえ失敗しても小早川秀秋になれば良いのですから。
ドイツはアメリカが参戦することを望んでいないでしょう。しかし日本がドイツの為にやっていることを無視できない、見捨てておけないだろうということです。アメリカをけん制するだろうということです。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日独伊三国軍事同盟(にちどくいさんごくぐんじどうめい、独:Dreimächtepakt、伊:Patto tripartito)とは、1940年(昭和15年)9月27日に日本(大日本帝国)、ドイツ(ナチス・ドイツ)、イタリア(イタリア王国)の間で締結された同盟条約を指す。

1936年(昭和11年)の日独防共協定、1937年の日独伊三国防共協定に引き続き、アジアにおける日本の指導的地位及びヨーロッパにおける独伊の指導的地位の相互確認、調印国いずれか一ヵ国が米国から攻撃を受ける場合に相互に援助すると取り決めがなされた。実質上、対米軍事同盟と見なされ、日本の対英、対米関係は極端に悪化した。

条約の正式名称は、日本では「日本国、独逸国及伊太利国間三国条約」(昭和15年条約第9号、日独伊三国同盟条約)と言う。

第一条 日本國ハ「ドイツ國」及「イタリヤ國」ノ欧州ニオケル新秩序建設ニ関シ、指導的地位ヲ認メ、且ツコレヲ尊重スル。
第二条 「ドイツ國」及「イタリヤ國」ハ、日本國ノ大東亜ニオケル新秩序建設ニ関シ、指導的地位ヲ認メ、且ツコレヲ尊重スル。
第三条 日本國、「ドイツ國」及「イタリヤ國」ハ、前記ノ方針ニ基ツク努力ニ附相互ニ協力スヘキ事ヲ約スル。更ニ三締結國中何レカ一國カ、現ニ欧州戦争又ハ日支紛争ニ参入シ居ラサル一國ニ依リ攻撃セラレタル時ハ、三國ハアラユル政治的経済的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スヘキ事ヲ約定スル。

同盟条約の条文に拠れば、いずれか一ヵ国が米国から攻撃を受けた場合にのみ相互援助義務が生じる。日本が真珠湾を先制攻撃した場合には相互援助義務は生じないにも関わらず、ヒトラーは12月11日に米国に対して宣戦布告した。その後3国によって、日独伊単独不講和協定(1941年12月11日締結、17日公布)が締結された(連合国側もこれに対抗して翌年1月1日に同様の宣言を発している)。
シンガポールを占領するには、マルビナスのように海軍陸戦隊一個中隊というわけにはいきません。

陸軍の師団が必要です。海軍だけでできるような作戦にはなりません。それにアメリカが参戦してきたからといって、簡単に撤退することもできません。陸軍は兵士の血を流して占領した場所を放棄しないでしょう。つまり小早川秀秋になれなくなるのです。
以下の輸送船はイギリスから喜望峰を通って中東に向かっていたのです。ですからマルビナスから出撃し、南アフリカ沿岸で輸送船を攻撃すればイギリスに打撃なのです。

代替経路はパナマ運河から南極大陸を回って中東に行くことですが、遠いです。
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防衛研究所戦史部主任研究官の荒川憲一氏

 海上輸送力の戦い
http://www.nids.go.jp/dissemination/kiyo/pdf/bulletin_j3-3_3.pdf

 前述の甲支隊4隻は、6月、初めの1週間で12隻、52,840総トンの商船をモザンビーク海峡で撃沈した。これを潜水艦1隻当り1ケ月に換算すると12隻、6万総トンの撃沈能力があることになる。英国側の統計資料によると、当時この海域には月当り80~90隻(40万総トンから45万総トン)の連合国船舶が航行していた36。潜水艦1隻当りの撃沈能力が変わらないと仮定すれば(一般的に連合国側はそのような損害がでれば、即座に様々な対策を措置するので、撃沈能力が低下していくであろうが)、7隻から10隻の潜水艦をこの海域に常続的に配備しておけば、この補給動脈はほぼ切断されることになる。この数の潜水艦を常続的に配置しておくためには、この作戦には3個単位の潜水戦隊21隻から30隻充当しなければならない。日本は開戦時、60隻の潜水艦を保有していたので稼動率などを考慮すれば日本海軍の潜水艦隊全力の作戦とならざるをえないであろう。その意味でも、東の太平洋正面は防勢に転ずる「東守西攻」戦略は基本的前提として欠かせない。

 また、米国の造船実績は1942年には5,393,000総トンで月当り450,000総トンであった。

(この実績は富岡課長の報告に示された海軍軍令部の米国の造船力見積もり、月25万総トンの約1.8 倍であるけれども)白紙的にはこのインド洋正面での日本の潜水戦隊による通商破壊戦による連合国商船の撃沈量は米国の造船量に匹敵する。

 しかし、ここで重要な点は、撃沈量が建造量に迫るということにあるのではなく、この補給ルートをこの時期に切断するということにある。つまり、1942年の上半期に、このルートでインド洋地域(中東、ペルシャ湾、インド)に英国と北アメリカから連合国の船舶により戦車2,415両、航空機 1,969機が補給されていたのである。また同期間、英国からこの地域に海上補給された車両は44,425 両であり、北アメリカからは81,470 両がこのルートで補給されていたしたがって、もしこの補給動脈切断作戦が成功していたら、アフリカ戦線と東部戦線の戦況は変わっていた可能性が高い。
もちろん、私が絶対に正しいとは思いません。ですから「作戦会議室」なのです。

私は現実の帝国海軍作戦会議室の連中と違って、現実主義者ですからアメリカと戦って勝てるとは思っていません。ですからアメリカが宣戦布告してきたら小早川秀秋になった方が良いと思います。戦勝国になりたければ小早川秀秋になる必要があるのです。
燃料は有ります。
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http://www5a.biglobe.ne.jp/~nkgw/history33.htm
開戦前日の石油備蓄は4300万バレル
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この半分もあれば十分なのです。

脇坂でもいいですよ。要は戦勝国になれれば良いのです。
以下のように、開戦当初638.4万総トンの船腹量有ったのですから、100万トンも有ればマルビナスに行けるでしょう。
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http://www.geocities.co.jp/Technopolis/5215/rsbc3.htm

rsbc3

さて、3巻といえば、しょっぱなから通商破壊作戦が話題になっていますね。そこで、今回は戦時標準船について話しましょう。

日本の造船は、昭和31年商船の建造では世界最大になった。これは、戦争に敗れてから僅か10年目に達成した偉業である。

それを達成できた原因の一つに、戦時中に5.5億円以上を造船所に投資した(工場等7億円)ことがある。物量国アメリカの、リバティー船のごとき大量生産は望むべくもなかったが、それでもわが国が戦争中360万トンもの造船をなし得たことは物資不足の時代にあって驚異的な事と言える。

そのような商船建造をさせたのは、ひとえに戦時中の恐るべき船舶喪失にある。
開戦当初638.4万総トンの船腹量はS・18年10月には500万総トン、S・19年2月には400万総トン、同年9月には300万総トン、翌1月には200万総トン、終戦時138万総トンとなり、日本商船隊は壊滅したのであった。

戦争当時、技術者として、高校を卒業したばかりの私の祖父は朝鮮の元山で焼玉エンジンの製作をしていたそうです。ある程度の規模の造船所が軒並み計画造船に組み込まれるなか、植民地の小型船工場にまで動員がなされたんですねぇ。

戦時中の船舶喪失量883万総トンの多くは、機雷と潜水艦によるものであった。保有量に対する喪失率はS・17年8月までは1%前後と、開戦時の予想と大して違わなかったが、ガダルカナル戦が流れを変えたのだった。

太平洋戦争当時の日本の民間造船所能力の30%程度が戦闘艦建造にあてられていた。それでは、商船建造は50万総トン程度が限界である(S・17年度造船量実績は142隻40万トン)。S・18年からの敵潜水艦の跳梁で、船腹が激減するまでもなく、既に造船所建造は始まっていた。


1942年から1945年までに建造された戦時標準船の隻数は、最終的に1340隻338万総トンに達した。

日本海事振興会刊 戦時造船史小野塚一著に詳しくかいてあります。
地球は丸いからです。西からでも東からでも行きたい所に行けるのです。

イギリスを降伏させれば、中国へのレンドリースを断つこともできます。
200万トン使ってもいいですよ。最後は根性で行くしかないでしょう。真珠湾攻撃だって最後は根性だったのです。つまりやってみないと分からないということです。
159*2,150万=341,850万Lですね。膨大な石油が有ったのです。
341,850*10,000=3,418,500,000Lですね。
3,418,500,000L/1,000=3,418,500m3

約、二百万トン位でしょうか。
自分で言いだしといて何ですけど、燃料そんなにいらないでしょう。50万トンも有れば十分かと。つまり最初言った量の1/4ですね。まあ、素人が計算していることですからお赦し下さい。実は以前のトピのどこかに計算してもらった数値が有ったのです。その数値も50万トン位だったように思います。

ですから輸送船も100万トンも有れば十分かと。
ドイツが仮に占領しても、イギリスが戦艦2隻位で取り返しに来れば引き渡すしかありません。ドイツには航空母艦が無いからです。つまり維持できないからです。
私がマルビナス派遣艦隊司令官だったら、あなたのような文句ばっかり言う、やる気のない部下は置いて行くだけです。

真珠湾攻撃時の艦隊編成です

【空襲部隊】  
第一航空戦隊 赤城・加賀(空母) 〈南雲忠一中将〉
第二航空戦隊 蒼龍・飛龍(空母) 〈山口多聞少将〉
第五航空戦隊 瑞鶴・翔鶴(空母) 〈原忠一少将〉
【警戒隊】    
第一水雷戦隊 阿武隈(重巡) 〈大森仙太郎少将〉
谷風・浦風・濱風・磯風(第十七駆逐艇)
不知火・霞・霰・陽炎・秋雲(第十八駆逐艇)
【支援部隊】
第三戦隊 比叡・霧島(戦艦) 〈三川軍一少将〉
第八戦隊 利根・筑摩(重巡) 〈阿部弘毅少将〉
【補給部隊】
第一補給隊  極東丸・健洋丸・國洋丸・神國丸
第二補給隊  東邦丸・東榮丸・日本丸
【哨戒隊】
第二潜水隊  伊十九・伊二十一・伊二十三 〈今泉喜次郎大佐〉


陸奥爆沈の理由は不明ですが、一説では他人の迷惑を考えない人が多くの隊員を道ずれに自殺したと考えられています。

こんな問題のある艦を連れて行ってマルビナスで爆沈でもされては大変です。だから連れていかなかったのです。


フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

陸奥(むつ)
日本海軍の戦艦で、長門型戦艦の2番艦。横須賀海軍工廠で建造された。長門と同様長く国民に愛されたが、人気では長門を凌ぎ、戦前男の子が学校の図画の時間に描くものといえば決まってS字型煙突を持った最新最強の軍艦、「戦艦陸奥」であったといわれる。


陸奥爆沈
太平洋戦争中は広島湾周辺で他の戦艦ともども温存され、1942年6月5日のミッドウェー海戦に参加する。しかし部隊後方のため戦局への寄与は無く、第一航空艦隊壊滅後に呉に帰投している。

そしてその後も大きな動きも無いまま1943年6月8日、広島湾沖柱島泊地にて停泊中の陸奥は、連合艦隊旗艦の長門が修理を終えて柱島泊地に向かっているため、午後1時より旗艦ブイより繋留替えをする予定であった。

陸奥の航海科員が錨地変更作業の準備をしていた12時10分ごろ、突然三番砲塔付近から煙が噴きあがった。と、同時に突如爆発を起こし、一瞬のうちに船体は2つに折れ、前部部分はすぐに沈没した。後部部分は艦尾部分を上にして暫く浮いていたが、程なく沈没した。乗員1,474人のうち助かったのは353人であり、死者のほとんどは溺死でなく爆発によるショック死だった。

陸奥の南南西約1,000mに停泊していた扶桑は「陸奥爆沈ス。一二一五」と発信、以後陸奥に関する一切の発信は禁止された。また付近の航行は禁止され、死亡した乗員の家族には給料の送金を続けるなど、陸奥の撃沈は一般には秘匿され、国民は戦後になるまでこの事件を知らされなかった。

爆発事故直後に査問委員会が編成され、事故原因の調査が行われた。検討の結果、自然発火とは考えにくく、直前に陸奥で窃盗事件が頻発しており、その容疑者に対する査問が行われる寸前であったことから、人為的な爆発である可能性が高いとされるが、真相は未だに明確になっていない。謎めいた陸奥の最期は、幾つかのフィクションの題材ともなった。 陸奥爆発の原因は、スパイの破壊工作説、三式弾の暴発説、乗員のいじめによる自殺説などが挙げられている。

旧海軍では、乗員の自殺に伴う爆発沈没事故が度々発生しているが、軍の暗部を隠蔽するため、いまなお原因不明の事故とされている(なお、陸奥爆沈時の第一艦隊司令長官であった清水光美中将は責任をとらされる形で予備役に編入されている)。

ただし、三式弾の暴発説については現在ではほぼ否定されている。三式弾説は事故原因調査前に最も疑われた事故原因のひとつであったが、爆発直後に発生した爆発煙が三式弾のものではなく、主砲弾の装薬(九三式一号装薬:ニトログリセリンと綿火薬が主成分)であったということが、陸奥の隣に碇泊していた扶桑の艦長であった鶴岡信道大佐以下目撃者が異口同音に語っており、原因調査の際に行われた目撃者に対する火薬煙の確認実験でも全員異口同音に主砲弾の装薬のものと証言している。

事故後の調査実験でも三式弾の劣化等による誘爆は発生しないことが判明しており、この時点で三式弾説は完全に否定されているのだが、現在でもまことしやかに沈没原因として書籍に載っていることがある。
http://homepage3.nifty.com/~fwix7026/books/ww2/mutubaku.htm
陸奥爆沈

著者:吉村昭。新潮社。

70年刊行、79年文庫化。
昭和十八年六月八日、戦艦陸奥は柱島泊地で原因不明の大爆発を起して沈没した。

『陸奥』といえば大正十年に長門級二番艦として建造されてより昭和十六年に大和が作られるまでの長い間、長門とともに世界最強の名を欲しいままにしていた戦艦だけれど、一度として戦場で活躍することなく実に呆気ない最期を迎えてしまうとっても不幸な艦ですね。

その原因は未だもって謎とされているが、さまざまな検証の結果、人為的によるものとの疑いが濃いらしい。

思えば帝国海軍の軍艦火薬庫災害事件の中には、火薬庫の放火によって起こった前例が数多くあり、例を挙げれば、戦艦『三笠』(15,140トン)が二度、二等巡洋艦『松島』(4,280トン)、装甲巡洋艦『日進』(7,750トン)、巡洋戦艦『筑波』(13,750トン)、戦艦『河内』(20,800トン)、これらのほとんどが人為的なもの、または人為的疑いが濃いものだそうだ。

明治三十八年の『三笠』爆沈からわずか十三年ほどに七つの爆発事故を引き起こした日本海軍もそれ以降は弾火薬庫に関係する人選に十分な配慮をはらうようになり、しばらく火薬庫災害から遠ざかっていたのだが、『陸奥』爆沈は『河内』爆沈後二十五年ぶりの事故となってしまった。

帝国海軍の栄光のかげにくろぐろと横たわる軍艦事故の系譜が今浮かび上がる。
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陸奥爆沈で検索していたのですが原因を、いじめ、とする記事が多いですね。
いじめが原因で沈んだ軍艦の数では日本が堂々の一位でしょう。
日本海軍にとっていじめというのは敵の砲弾より恐ろしいものかもしれません。
敵の砲弾だってあれほどの被害を陸奥に与えることはできなかったでしょう。

いじめというのは、これはもう日本人の国民性ではないかと思わずにはいられません。どういう人がいじめられるかと言うと、人と同調しない人、変わったことを言う人、自説を曲げない人、周りの人全てから批判されても考えを変えない人、分かります。今の私がそういう立場ですから。

私には理解できませんが、一部の人にはそういう人はどうしても許せないみたいなんですね。その結果、日本人は徹底的に議論することができない国民なのではないかと思うんですよ。分かります。

徹底的に議論しようとすると、反則技を使って議論を封じようとしてくる人がこのコミュにもいますから。おそらく1941年の海軍作戦会議室でも同じことが起こったのでしょう。分かります。

アメリカとの戦争に反対した人がどのような目に会ったか。おそらくよってたかっていじめられたんでしょうねえ。日本になぜまともな作戦会議の議事録が無いのか分かりますよ。

その結果どうなったか?戦艦陸奥は爆沈し、日本そのものも広島と長崎で二度の大爆発の後、無条件降伏。アメリカと戦争を始めたということは一種の自殺行為です。それは陸奥爆沈の原因が自殺であるように。

日本はアメリカやイギリスからの経済封鎖といういじめに耐えられなかったのでしょう。そして真珠湾という名の火薬庫に放火してしまった。分かります。私のようにいじめに耐えられる人も居ますが、逆に日頃、他人をいじめている人は自分がいじめられると耐えられないものです。

なぜ、日本は第二次大戦で敗北したか?その原因がここに有るのです。イギリス人やアメリカ人には議論の相手を尊重し言論の自由を認める度量が有ったのに対し、日本人にはそれが無く自由な議論を封じてしまった。これが敗戦の原因なのです。

アメリカと戦争しても、勝てるのは一時的で最終的には負けると山本長官も認めています。従ってアメリカとの戦争は避けるべきです。
まず、この問題がそれほどの大問題なのか?ということですよ。陸奥と伊勢と戦力にそんなに違いが有るのですか?

1941年には確かに1943年のことは分からなかったでしょう。しかし、我々は1941年の作戦会議に介入することによって、既に歴史を変えてしまっているのです。

当然、陸奥は1943年には爆発しないでしょう。真珠湾を攻撃しないことで歴史を変えてしまっているのですから当然です。つまり我々は陸奥がいつ爆発するか知らないのです。分からないから陸奥は入れなかったということです。

いずれにせよ、陸奥か伊勢か、これ以上議論する価値は無いと思います。他に答えなければならない質問が一杯有るので、この質問はもう終わりにしたいと思います。
できたら、マルビナスを拠点にイギリスの通商破壊しても戦局に大きな影響を与えることはできないという説明をお願いします。


地中海航路は使えないというのが私の認識です。
現在の我々は未来の情報を知っているのですから、それを忘れろと言っても無理でしょう。しかし当時得られた情報を基に作戦を練るのは当然です。現在の我々は核爆弾の知識が有るからといって、核開発に全力を上げれば良かったというわけにはいきません。

陸奥の問題については、作戦全体から見れば、陸奥が伊勢に変わろうとも、大した問題ではないと思います。もっと重要な問題を議論すべきではないですか?

織田信長は裏切りに厳しい人だったようですね。その点が徳川家康と違いますね。裏切りに厳しい織田信長と裏切りを容認した徳川家康。この二人がその後どうなったか?誰でも知っていることです。

わざと負けるような作戦はいくらなんでも容認されないでしょう。仮に途中で発見されれば、そのままUターンすることになりますが、恐らくシンガポール攻略ということになるでしょう。

そうなると、海軍だけの作戦では無くなり、アメリカが参戦しても小早川秀秋になれなくなります。
マゼランやドレークは当然ながら、海図無しでこのあたりを航海していたのですよ。それを考えたら楽勝でしょう。
500kgのヨットでも一人で太平洋を横断できるのですよ。何百、何千トンの船がマルビナスに行けない理由は無いでしょう。
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堀江 謙一
1962年、マーメイド号による西宮-サンフランシスコ間の太平洋単独航海に成功。当時はヨットによる出国が認められなかったため、密出国であった。

日本では当初この点について非難が殺到し、犯罪者扱いすらされたが、堀江の偉業が認知されるにつれてその声は小さくなった。

なお当時のサンフランシスコ市長には「コロンブスもパスポートは省略した」と、名誉市民として受け入れられている。

また、1974年には270日余りで単独・無寄港の世界一周を成功させた。これについても、石原慎太郎から『週刊プレイボーイ』上で成功する可能性があり得ないものとして非難され、堀江を擁護する本多勝一らとの論争を呼んだ。

2004年からヨット「SUNTORY マーメイド号」で単独無寄港による世界一周(東回り)に挑戦し、2004年10月に兵庫県西宮市の新西宮ヨットハーバーから出発していたが、2005年6月に新西宮ヨットハーバーに無事帰還を果たした。

東西両方向周りで世界一周航海をしたのは日本人初、世界でもオーストラリア人に次ぎ2人目という記録である。
ですから、その結果をひっくり返せば良いわけですよ。真珠湾攻撃は国を滅ぼすからマルビナス占領に変更すべきとすれば良いわけです。

この作戦会議室で議論すべきことは日本を敗戦国にしないことです。それにはマルビナス作戦を実行し、アメリカが参戦してくれば撤退して、石油を大量に消費したので海軍はこれ以上作戦行動ができないと言って、陸軍を大陸から撤退させれば良いのです。
レイテの段階では海軍にたくさんの戦死者が出ているので戦争を止めれなくなっていたのです。

しかし、マルビナスを撤退した段階では海軍には石油は無いけど、戦死者はほとんど出てないので戦争を止めることができるのです。

陸軍が文句を言っても、海軍は石油が無いので何もできないと言ってねばれば、陸軍も石油が無いので何もできなくなって平和になります。
マルビナスから撤退した今はどうやってアメリカと仲良くなれるかを考える時ですよ。例え蘭印に行ったとしても、フィリピンを押さえられていてはアメリカと戦争などできるわけがないのです。

そんな精神論を言っていてもダメですよ。自分を客観的に見ないと。陸軍は石油が無い以上、大陸から撤退し、アメリカから石油を貰うことを考えるしかないでしょう。
大陸から撤退できない理由として陸軍が挙げていたのが、戦死者がでているのに撤退したら戦死者が無駄死にになるというものだったのです。
国民には説明して分かってもらうしか有りません。

海軍が動かなければ陸軍のやれることは限られていますよ。とても蘭印を陸軍だけで取ることはできません。そのうち陸軍の石油もなくなって何もできなくなったら戦争を止めるしかないでしょう。
しかし石油が無くなったら国民生活が立ちいかなくなり陸軍もそれを無視することはできなくなるでしょう。
反乱したのは陸軍の一部ですよ。


戦争継続すべしと終戦にすべしが同数だったので、天皇に聖断が求められたのです。
海軍は石油が無いので陸軍の言うことが聞けないのです。

海軍は陸軍を大陸から撤退させることで日本を救うことができるのです。
陸軍はウマシカなのでうまく騙せばよいのです。

陸軍と海軍が戦争しても石油は出てきませんよ。

マルビナスに行って通商破壊すればイギリスは降伏し、中東の石油が手に入ると言えば良いのです。

空っぽの石油タンクを見せれば良いのです。
だから陸軍はウマシカだと言われるんですよ。

1トンのヨットで世界一周だってできるんです。何百トンの船がマルビナスに行けないはずが有りません。私はそう信じています。
中東にはロンメルに行ってもらうのです。マルビナスからロンメルを助けることができるのです。
確かにマルビナスには石油は有りませんが、マルビナスで通商破壊すればロンメルを助けることができ、中東の石油が手に入るのです。

南印に行けば、アメリカとの戦争になった時、小早川秀秋になれないと言っているではないですか。アメリカと戦争しないことが戦勝国になる秘訣なのです。
マゼラン海峡はともかく、あの広いドレーク海峡なら目をつむってでも通れますよ。
ロンメルには盛り返してもらうしかありません。
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防衛研究所戦史部主任研究官の荒川憲一氏

 海上輸送力の戦い
http://www.nids.go.jp/dissemination/kiyo/pdf/bulletin_j3-3_3.pdf

 前述の甲支隊4隻は、6月、初めの1週間で12隻、52,840総トンの商船をモザンビーク海峡で撃沈した。これを潜水艦1隻当り1ケ月に換算すると12隻、6万総トンの撃沈能力があることになる。英国側の統計資料によると、当時この海域には月当り80~90隻(40万総トンから45万総トン)の連合国船舶が航行していた36。潜水艦1隻当りの撃沈能力が変わらないと仮定すれば(一般的に連合国側はそのような損害がでれば、即座に様々な対策を措置するので、撃沈能力が低下していくであろうが)、7隻から10隻の潜水艦をこの海域に常続的に配備しておけば、この補給動脈はほぼ切断されることになる。この数の潜水艦を常続的に配置しておくためには、この作戦には3個単位の潜水戦隊21隻から30隻充当しなければならない。日本は開戦時、60隻の潜水艦を保有していたので稼動率などを考慮すれば日本海軍の潜水艦隊全力の作戦とならざるをえないであろう。その意味でも、東の太平洋正面は防勢に転ずる「東守西攻」戦略は基本的前提として欠かせない。

 また、米国の造船実績は1942年には5,393,000総トンで月当り450,000総トンであった。

(この実績は富岡課長の報告に示された海軍軍令部の米国の造船力見積もり、月25万総トンの約1.8 倍であるけれども)白紙的にはこのインド洋正面での日本の潜水戦隊による通商破壊戦による連合国商船の撃沈量は米国の造船量に匹敵する。

 しかし、ここで重要な点は、撃沈量が建造量に迫るということにあるのではなく、この補給ルートをこの時期に切断するということにある。つまり、1942年の上半期に、このルートでインド洋地域(中東、ペルシャ湾、インド)に英国と北アメリカから連合国の船舶により戦車2,415両、航空機 1,969機が補給されていたのである。また同期間、英国からこの地域に海上補給された車両は44,425 両であり、北アメリカからは81,470 両がこのルートで補給されていたしたがって、もしこの補給動脈切断作戦が成功していたら、アフリカ戦線と東部戦線の戦況は変わっていた可能性が高い。

使いつぶしてないですよ。マルビナスから中東に行けば良いのです。

アフリカ大陸に沿って航行する船を潜水艦や巡洋館で攻撃するのです。
アフリカ沿岸には偵察機を積んだ巡洋艦1隻と潜水艦数隻を送り、他の艦隊はマルビナスにいるわけです。巡洋艦はアフリカの基地航空隊の攻撃範囲に入らないので航空機の攻撃を受けることは有りません。

強力な護衛船団を発見したら、マルビナスの艦隊を出動させます。
人間の体内には羅針盤は無いですが、潜水艦には有りますよ。
あなたは潜水艦の専門家ではないし、航海士でもないでしょう。
私も航海士ではないですが、航海士ならちゃんと目的地に行けますよ。
最初から持って行くか、拿捕したタンカーの分を使うのです。

暗礁の位置は分かっているのですから、近づかなければ良いのです。潜水艦といっても通常は20mくらいしか潜ってないでしょう。
過去レスに書いてますよ。それにここは作戦会議室であり、作戦を自由に検討する場ですから、より良い作戦に変更するのは自由ですよ。

待ったなしの将棋を指しているわけではないのですから。
航海士でもない私達が、できるかできないか議論しても仕方がないのではないでしょうか。
大丈夫もなにも、1941年の作戦ですよ。今からでは実行不可能ですよ。
ドレーク海峡は国際海峡ですから、ドレーク海峡の海図なら有るでしょう。
前提も何も1941年の作戦だと最初からトピ文に書いてますよ。
陸軍にそういう提案をして納得してもらえるなら、それでもいいですが、とても納得してくれないでしょう。
1941年11月では作戦を立てるのが遅すぎると言われるなら、10月か9月でもいいですが、真珠湾攻撃以外の作戦は無かったのかということです。
1941年の決定によって300万人の日本人が戦争の犠牲になったのです。その決定をした旧軍指導者達は批判されて当然ではないでしょうか?

本当に真珠湾を攻撃するしか選択肢が無かったのか?他に選択肢が有ったのではないか?ということです。

当時の指導者達は説明責任を果たしていないと言っているのです。そして国民に説明責任を果たさない伝統は今も続いているのです。

ですから私は過去の指導者達をウマシカだと批判すると同時に現在の指導者達も批判しているのです。過去の指導者達を批判することは、同じように説明責任を果たしていない現在の指導者を批判することになるのです。
それはそうでしょうが、そんなことを言っていては切りがないというか、別なトピを立てて議論することになると思います。ここは1941年の真珠湾攻撃以外の作戦は無かったか?というトピですので。
死者には敬意を払いますが、それと300万人の犠牲者を出した戦争の責任は別だと思います。二度とこのような失敗を起こさない為にも過去の戦争の批判は必要です。

私は当時の指導者達が本当に最大限の努力をしたのか疑問に思っています。彼らは怠惰で、仕事をさぼっていたと思います。無責任で、いい加減で、臆病で、卑怯者で、嘘つきだったのです。つまりウマシカだったということです。

それが今回の一連のトピの議論で証明されたと思います。
マルビナス作戦が真珠湾攻撃作戦より優れていることは今までの議論で明らかです。これが証明です。
この問題は二択問題なのです。

1)真珠湾攻撃作戦
2)マルビナス占領作戦

1)の真珠湾攻撃作戦がダメな作戦であることは歴史によって証明済みですから、
2)のマルビナス占領作戦が正解であることは明らかです。
アルゼンチンは日和見してたのが、ドイツや日本の敗北が決定的になって、小早川秀秋のように連合国の側に付いたのですよ。ですから1941の時点では中立だったのです。

マルビナス占領作戦がダメだと言われますが、300万人の犠牲者を出すことになる真珠湾攻撃作戦よりダメなわけが有りません。

マルビナス作戦が成功すれば戦勝国。失敗して撤退することになっても、小早川秀秋のようにアメリカ側について戦勝国なのですから。戦死者も1/10の30万人に収まるでしょう。

それでも地球は回っている」ガリレオ
 


失敗というのはアメリカの参戦のことでしょうが、アメリカが参戦して来たら撤退するのです。そしてアメリカ側について戦勝国です。マルビナス作戦は失敗しても成功しても戦勝国になれる作戦なのです。分かってもらえないのが残念です。
もちろん私は賛成ですよ。そしてこのトピをROMしてる多くの方々も賛成でしょう。いわゆる声無き多数ですね。

もちろん、戦争は政治の延長です。交渉は常に継続してすべきです。

歴史は結果です。
政治も結果です。
後だしジャンケンでも、小早川秀秋でも、
負けるより勝った方が良いのは明らかです。

ここは1941年11月の大日本帝国海軍作戦会議室です。

この頃、真珠湾への奇襲攻撃が決定されました。この奇襲攻撃自体は成功であったにもかかわらず、その後の日本は有史以来の敗戦国家となったのですから、真珠湾攻撃は誤りだったと言わざるをえません。

では他にどのような選択肢が有ったのか検討してみたいと思います。米国のハルノートを受け入れるという選択肢が唯一の日本に平和をもたらす選択肢だと思うのですが、陸軍の反対で無条件には受け入れられないとします。

つまり、何らかの軍事行動を行い、その上で陸軍に受け入れさせるということです。軍事行動といってもここは海軍の作戦会議室ですから、海軍だけでできることに限られます。

真珠湾攻撃にしても、もし途中でアメリカ軍の偵察機に艦隊が見つかれば作戦は中止されたでしょう。そして真珠湾奇襲が失敗したのでアメリカとは戦争できないということになり、ハルノートを受け入れることになったかもしれません。

真珠湾攻撃が成功したのが悔やまれます。しかし失敗した方が成功するより良いというような作戦は明らかに間違っているわけで、他にもっと良い作戦が有るはずです。そこでどのような作戦が有り得るか議論してみたいと思います。


作戦会議室ですから、作戦と関係無い話はしないで下さい。
 

真珠湾攻撃
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1941年9月、アメリカやイギリスとの関係悪化を受け、日本軍は南方作戦を具体化させていった。作戦目標は蘭印(オランダ領東インド)の石油資源の獲得であるが、制海権確保のためにアメリカ太平洋艦隊の戦力を減殺する必要があるとされた。だがこれを実現するための山本の真珠湾航空奇襲案に対して軍令部は大反対した。

この案では日本海軍の持つ正規空母の全てをハワイ作戦に投入するため、南方作戦への航空支援が手薄になる上に、万が一作戦が失敗したときには、最悪日本は虎の子の正規空母4隻を全て失い、制空権、制海権を完全に失うこととなりかねないからである。軍令部において9月に行われた兵棋演習では、敵戦艦5隻、空母2隻の撃沈破と引換えに味方正規空母4隻中3隻沈没、1隻大破で機動部隊全滅という結果に終わり、軍令部の危惧を裏付ける結果となった。

あくまで正規空母全艦投入を求める連合艦隊司令部と、軍令部の対立は日を追って激しくなり、終には作戦そのものが中止になりかねない雰囲気になりかけたが、正規空母「翔鶴」、「瑞鶴」が秋口に相次いで竣工した上、雷撃に目処が立ったことで、連合艦隊司令部が最後の賭けに出た。連合艦隊参謀黒島亀人大佐が「この作戦が認められなければ、山本長官は連合艦隊司令長官を辞職すると仰っている」と軍令部次長伊藤整一中将に言い放ち、これに驚いた軍令部総長永野修身大将は渋々作戦実施を認めた。
真珠湾攻撃参加兵力

日本海軍
第一航空艦隊 - 司令長官:南雲忠一中将、参謀長:草鹿龍之介少将

第一航空戦隊 - 南雲長官直率、空母「赤城」「加賀」

第二航空戦隊 - 司令官:山口多聞少将、空母「蒼龍」「飛龍」

第五航空戦隊 - 司令官:原忠一少将、空母「瑞鶴」「翔鶴」

艦載航空機350機(零式艦上戦闘機78機、九九式艦上爆撃機129機、九七式艦上攻撃機143機)

第三戦隊 - 司令官:三川軍一中将、戦艦「比叡」「霧島」

第八戦隊 - 重巡洋艦「利根」「筑摩」

第一水雷戦隊 - 司令官:大森仙太郎少将、軽巡洋艦「阿武隈」

第一七駆逐隊 - 駆逐艦「谷風」「浦風」「浜風」「磯風」

第一八駆逐隊 - 駆逐艦「陽炎」「不知火」「秋雲」「霞」「霰」

第二潜水隊 - 司令:今和泉喜次郎大佐、潜水艦「伊19」「伊21」「伊23」

第一補給隊 - 司令:大藤正直大佐、油槽船「極東丸」「健洋丸」「国洋丸」「神国丸」

第二補給隊 - 油槽船「東邦丸」「東栄丸」「日本丸」

特殊潜航艇5隻(甲標的5隻)他


アメリカ海軍
太平洋艦隊 - 司令長官:ハズバンド・キンメル大将

戦艦8隻(「カリフォルニア」「メリーランド」「テネシー」「アリゾナ」「オクラホマ」「ウエストバージニア」「ペンシルベニア」「ネバダ」)

重巡2隻(「ニューオーリンズ」「サンフランシスコ」)

軽巡6隻(「デトロイト」「ホノルル」「セントルイス」「ヘレナ」「ローリー」「フェニックス」)

駆逐艦30隻
その他48隻
カタリナ哨戒機14機
基地航空機399機


損害

日本海軍
空襲部隊:未帰還機29機、損傷74機、戦死55

特別攻撃隊:甲標的 未帰還5隻、戦死9(岩佐直治大尉[7]など)、捕虜1(酒巻和男少尉)


アメリカ海軍
戦艦
ネバダ:被雷1、被弾5、至近弾2。擱座。1942年4月22日サルベージ作業終了。1942年12月修理改造終了。

オクラホマ:被雷5。転覆、沈没。1943年浮揚、1944年除籍。1947年サンフランシスコへ移送中沈没。

ペンシルベニア:ドック内で被弾1。修理の際にオクラホマとアリゾナから取り外した主砲を搭載し、1942年3月艦隊に復帰。

アリゾナ:被雷1、被弾8。800kg爆弾の命中による弾薬庫(火薬庫)の爆発で艦体切断・沈没。サルベージ中止。引き上げ可能な装備を引き上げの後、除籍。その後1962年以来記念艦として在籍し現在に至る。

テネシー:被弾2(不発弾1)。損害は軽微だったが、修理と同時に大改装を施して艦隊復帰。

カリフォルニア:被雷2、被弾1、至近弾1。着底。1942年3月浮揚、1944年5月修理・大改装終了。

メリーランド:被弾2。1941年12月21日、応急修理終了。本格修理の後1942年2月艦隊に復帰。

ウエストバージニア:被雷7、被弾2(不発弾)。着底。1942年5月サルベージ作業終了。修理・大改装を実施し1944年7月に艦隊復帰。

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永野 修身(ながの おさみ、1880年6月15日 - 1947年1月5日)最終階級は元帥海軍大将・正三位・勲一等・功五級。東京裁判中に巣鴨プリズンにて獄中死。

1910年に海軍少佐に昇任した後、1913年から1915年まで米国駐在武官としてハーバード大学に留学。1920年から1922年まで再び在米国大使館付武官として米国駐在、ワシントン会議にも全権随員として参加。

開戦前には病気を理由に辞職を考えたが後任に避戦派の百武源吾や米内光政が就任する恐れがあったため、開戦派の圧力を受けて続投した。

石油が枯渇するのを恐れて対米早期開戦を主張し太平洋戦争勃発の一因をつくった(詳細は下記)。また、その手段として連合艦隊司令長官となっていた山本五十六が真珠湾攻撃作戦を薦めていった際には、投機性の高さを理由に軍令部の課員がこぞって反対する中、永野はこれを許可した。

1945年8月、終戦に際して昭和天皇が元帥府の意見を聴取した際、杉山とともに「国軍は尚余力を有し士気も旺盛」「米軍を断乎撃攘すべき」と述べた。

戦後、アメリカをはじめとする戦勝国によってA級戦犯容疑者として極東国際軍事裁判に出廷するが裁判途中の1947年1月5日、肺炎のため巣鴨プリズン内で死去した。享年66。1978年に靖国神社に合祀される。

帝国海軍の歴史上、一人で海軍三顕職(海軍大臣、連合艦隊司令長官、軍令部総長)を全て経験したのは永野のみである。

8月頃には陸軍の北進論は完全に影をひそめ、対米英欄開戦を視野に入れた『帝国国策遂行要領』が陸海軍中央の折衝を重ねて起草され、1941年9月3日、大本営政府連絡会議にて決定された。この時期、永野は開戦派であり、会議の冒頭で提案理由を次のように述べた。

帝国は各般の方面において物が減りつつあり、すなわちやせつつあり。これに反し敵側は段々強くなりつつあり。時を経れば帝国はいよいよやせて足腰立たぬ。また外交によってやるのは忍ぶ限りは忍ぶが、適当の時機に見込みをつけねばならぬ。到底外交の見込みなき時、戦を避け得ざる時になれば早く決意を要する。今なれば戦勝のチャンスあることを確信するも、この機は時と共になくなるを虞れる。

戦争については海軍は長期短期二様に考える。多分長期になると思う。従って長期の覚悟が必要だ。敵が速戦即決に来ることは希望する所にして、その場合は我近海において決戦をやり、相当の勝算があると見込んで居る。しかし戦争はそれで終わるとは思わぬ、長期戦となるべし。

この場合も戦勝の成果を利用し、長期戦に対応するが有利と思う。これに反し決戦なく長期戦となれば苦痛だ。特に物資が欠乏するので之を獲得せざれば長期戦は成立せず。

物資を取ることと戦略要点を取ることにより、不敗の備をなすことが大切だ。敵に王手と行く手段はない。しかし王手がないとしても、国際情勢の変化により取るべき手段はあるだろう。要するに国軍としては、非常に窮境に陥らぬ立場に立つこと、また開戦時機を我方で定め、先制を占める外なし、これによって勇往邁進する以外に手がない

時機を逸して数年の後に自滅するか、それとも今のうちに国運を引き戻すか、医師の手術を例に申上げれば、まだ、七、八分の見込みがあるうちに最後の決心をしなければなりませぬ。相当の心配はあっても、この大病を治すには大決心を以て国難排除を決意する外はない。思い切るときは思い切らねばならぬと思います。

天皇が「絶対に勝てるか?」と尋ねた際には、

絶対とは申し兼ねます。事は単に人の力だけでなく、天の力もあり、算があればやらなければなりませぬ。必ず勝つかときかれても奉答出来かねますが、全力を尽くして邁進する外はなかるべし。外交で対米妥結といっても、一年や二年限りの平和では駄目で、少くも十年、二十年でなければなりませぬ。一年や二年の平和では、第一国民が失望落胆すべし

会議後、永野は統帥部を代表する形で次のように「亡国」という言葉を交えて語ったという。

戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である。しかして、最後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活路を見出うるであろう。戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう。そして、いったん戦争と決定せられた場合、我等軍人はただただ大命一下戦いに赴くのみである。

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福留繁
1891年2月1日 – 1971年2月6日

最終階級 海軍中将
連合艦隊参謀長

南太平洋海戦のあとに南雲艦隊の残存機を近藤艦隊に移送するか、即時次の作戦を立案してガダルカナル島の米軍飛行場を叩かなかった事、

ガダルカナルの航空偵察不徹底により戦闘機滑走路の建設を察知しそこないヘンダーソン基地艦砲射撃で餓島航空戦力を潰しそこなったこと、

第二師団揚陸に軽空母を護衛につけなかったことは艦隊決戦論主流・陸海軍の関係不良による物であるが、結果としてガダルカナルを餓島化してしまった。

また、南太平洋海戦からエセックス級就役開始までの米空母払底状態を有効に利用し切れなかった事、

航空機が主力兵器となりつつある時期に敵勢力圏から脱出する形で生還した航空兵を粗略に扱い、ついには自爆同然の無体かつ無意味な作戦で消耗させた事(証言者の坂井三郎氏はこの件で海軍上層部に対する強い憤懣を抱いたようだ)もあったと言う批判もある。

1943年5月、海軍甲事件に伴い聯合艦隊司令長官に親補された古賀峯一海軍大将に要請され、再び聯合艦隊参謀長となる。しかし、戦況は既に日本にとって不利となりつつあり、戦術戦略の神様とまでおだてられていた福留も、実際は頭が固い人物だったらしく伝統的な艦隊決戦主義から脱却できず、有効な作戦を打ち出せないまま日月を費やすのみだった。

1944年3月31日、米海軍襲撃との誤情報の為、急遽、聯合艦隊司令部のパラオからダバオへの移転が決定され、整備も十分に終わっていない飛行艇を発進させたものの、悪天候で、搭乗していた参謀長機はセブ島沖に不時着、米軍人の指揮するゲリラ隊に捕らえられ捕虜となった(海軍乙事件)。

この時に、福留は持参していた機密書類を何一つ抵抗もせずに奪われるという大失態を犯してしまう。その後解放された福留は、海軍次官沢本頼雄中将らから事情聴取を受けることになるが、本人は徹底して容疑を否定した事と、生え抜きのエリートを重刑にかけることを忌避した海軍上層部の事なかれ体質の為に機密書類紛失の失態は不問に付され、6月に第二航空艦隊司令長官に栄転することとなった。

この為に「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)の関連情報が詳細な部分まで漏れて、敵が十分な対策を立てていたことを前線の将兵は知らないまま戦い、一方的な敗北を喫することになった。

その結果B-29による日本本土への戦略爆撃が開始されたことを考えると、あまりにも重大な背信行為であったと言えよう。

1945年1月、第十三航空艦隊司令長官兼第一南遣艦隊司令長官。同年2月、第十方面艦隊司令長官を兼任。そのままシンガポールで終戦を迎えた。

終戦後は戦犯として収監された後、1950年に復員。後に水交会理事長を勤めた。 なお、米海軍やフィリピンゲリラ達等の数々の証言にもかかわらず、死ぬまで乙事件で機密書類が奪われたことを認めなかったという。

結局、海軍乙事件については、福留中将他二番機の乗員がフィリピン住民に救助され、後に反日ゲリラに引き渡されたことを認めた。

機密書類は米側に渡っていなかったというのが戦中の軍の認識であったが、戦後米国が公開した文章の中に、機密書類が米国に渡っていた証拠が発見され、福留が自分の失敗を隠蔽していたことが明白となった。

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海軍甲事件(かいぐんこうじけん)とは、1943年(昭和18年)4月18日に起こった連合艦隊司令長官 山本五十六海軍大将機撃墜事件のことを指す。日本軍の暗号がアメリカ海軍情報局に解読され、待ち伏せを受けたことから発生した。

日本:一式陸上攻撃機2機、零式艦上戦闘機9機(内3機戦闘前に引きかえす。零戦隊第二小隊の三番機を務めた柳谷飛兵長は元々6機だったと主張している。)

アメリカ:P-38戦闘機18機(内2機途中で引きかえす)

日本海軍は1943年4月7日から「い」号作戦を実行し、ソロモン諸島、ニューギニア方面の連合国艦隊に攻撃を加えた。 この作戦が一応成功し、山本長官自らショートランド島方面に視察と激励に行くことになった。 4月14日早朝、前線の各基地に4月18日の分単位の視察計画が暗号電報で通知された。

米軍はこの暗号電報を直ちに解読した。知らせは太平洋艦隊ニミッツに報告され、ニミッツは山本長官が日本で最優秀の司令官であり、より優れた司令官が登場する恐れが無いと判断し、殺害計画を進める事にし、ハルゼーに「予備計画の作成の権限の授与」を山本長官の行程と共に通知した。

しかし、山本の様な有名人を殺害すると政治的反動が日本で引き起こされるのを危惧したニミッツは、先にノックス長官とルーズベルト大統領の許可をとり、ニミッツは最終的な命令をハルゼーに出した。ハルゼーはガダルカナルの陸軍機P−38で攻撃が可能と応答してきた。

一式陸上攻撃機2機被撃墜。1番機に搭乗していた山本長官以下11名は全員戦死。2番機に搭乗していた宇垣参謀長ら3名は負傷したが救助された。

アメリカ:P-38戦闘機1機被撃墜。

事実としてアメリカは日本海軍の暗号から山本の日程を解読し、戦闘機を山本機と認識した上で待ち伏せ撃墜した。しかしアメリカはこの解読の事実を他国に悟られないよう、偶然の撃墜であったかのように発表を装っている。

撃墜の翌日、サンフランシスコ放送は山本長官の名前を出すことなく、撃墜の事実のみを簡単に報じた。同日にブーゲンビル島のカヒリ飛行場を空爆し、山本機への攻撃を一帯への攻撃の一部であるかのように見せた。

さらにニミッツは部下のハルゼーに対してすら情報源を「現地人スパイからの情報」として伝え、暗号解読の事実を秘匿している。

なお2週間前に暗号表(乱数表)を更新したばかりの日本海軍は「アメリカに暗号を解読された」という見解を取ることができず、その後の日本海軍の連敗へとつながったとされている。

しかし実はこの事件に限っては、更新前の古い乱数表を使って山本の日程表を送信するという日本海軍の対応が招いた事件であったことが、2008年9月までに機密解除されたアメリカ軍史料から判明した。

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海軍乙事件(かいぐんおつじけん)とは、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)3月31日、連合艦隊司令長官 古賀峯一海軍大将が搭乗機の墜落により殉職した事件。先の山本五十六長官搭乗機が撃墜された事件(1943年4月18日)を海軍甲事件と呼ぶことから、本件を乙事件と呼んでいる。

1944年2月のトラック島空襲の後、連合艦隊は新たな内南洋の拠点としてパラオを利用していたが、3月に連合軍の大空襲を受けた。そのため、古賀ら司令部の要員は3月31日、ミンダナオ島のダバオへ飛行艇(二式大艇)で移動を図ったが、途中で低気圧に遭遇し、行方不明となった。

一方、二番機はセブ島沖に不時着し、搭乗していた福留繁参謀長以下の連合艦隊司令部要員9名は泳いで上陸したがゲリラの捕虜となり、新Z号作戦計画書、司令部用信号書、暗号書といった数々の最重要軍機を奪われてしまった。福留等は抵抗も、破棄も、自決もしなかった。

元々フィリピンはアメリカの植民地であり、日本軍の軍政が上手く行かずにフィリピンの経済にマイナスの影響しか及ぼさなかったこともあって、住民の感情はどちらかといえば親米的であった。

そのためアメリカ軍は日本の支配が続いていた間、潜水艦での連絡員を送り込むなどして現地のゲリラと連携し、その組織化に手を貸していた。福留以下は後日解放されたものの、作戦計画書等の機密文書はのちにゲリラからアメリカ軍の手に渡った。ブリスベーン郊外の連合国軍翻訳通訳局で翻訳された。新Z号作戦計画書から、マリアナ防衛作戦に参加する兵力、航空機や艦船の数、補給能力、指揮官の名前等が米軍に知られる所となったと言う。


カール・ソルバーグは著書の冒頭にて「情報に関する一般的な仕事とは、敵の全てを知って、その知った事柄をどう解釈するか」であることを述べている。カールはこの戦いの時、第3艦隊司令部のスタッフとしてニュージャージー(USS New Jersey, BB-62 )に乗組んでおり、彼の同室者だった情報士官のハリスコックス大尉は計画書を別の観点から分析していた。

ハリスコックスは第3艦隊の他のスタッフほど航空戦を経験してなかったため、航空機への過度な重み付けがなく、水上艦の動きに注目した。その結果24日の夜、日本艦隊の本当の目的が栗田艦隊による輸送船団攻撃であるという結論に達した。彼は上司の情報参謀マリオン・チーク大佐にこの検討結果を伝え、チーク大佐は司令部の他の面々と作戦行動の変更を求めて掛け合ったが、ハルゼーは就寝中であり、司令部の中では航空参謀ホレスト・モルトン大佐などの声望が大きく、チークの司令部内での影は薄かった。

このため、モルトンはこの推測をぞんざいに扱い、作戦行動に反映されなかった。25日朝、サマール沖で護衛空母群が栗田艦隊の攻撃を受け、その報告により司令部は騒然となった。その後、第7艦隊司令官のトーマス・C・キンケイド中将による救援要請や、それを受けたチェスター・ニミッツからの電文などが続々着電し、第3艦隊は栗田艦隊追撃の為にサンベルナルジノ海峡に向け反転した。靡下の第34、第38の各任務部隊に反転を指令する電文を起草したのはモルトンであった。

こうしてレイテ沖海戦においても、鹵獲した新Z号作戦計画書は有効に使われなかった。戦後カールが書いた『決断と異議 レイテ沖のアメリカ艦隊勝利の真相』を訳した高城肇は訳者あとがきで「アメリカ艦隊の作戦行動に影響を与えたという事実は見当たらない」と述べている。

ただし鹵獲された書類は上述のように新Z号作戦計画書以外にもあり、その後も日本本土空襲などで活用された。暗号書類は戦後公開されたアメリカの公文書の中から発見されている。

福留は海軍上層部の擁護もあり、軍法会議にかけられる事も、予備役に退かされる事もなく、その後も第二航空艦隊司令長官としてレイテ沖海戦に参陣するなど海軍内の要路に留まった。戦後は連合軍に一時期収監されるものの無事復員し、結局事件直後からその最期まで軍機を奪われた事を認めようとはしなかった(もっとも、この理由には、奪われた計画書類が具体的にどのような形で利用されたか、日本側からの取材のみでは、世間一般に十分に明らかにならなかった事もある。

例えば吉村昭とアメリカ軍関係者ではアメリカ軍に渡った後の利用状況の詳述度合いに差がある)。戦後、海軍は身内に甘い体質を持つと批判されたが、その理由として本件を挙げる評者も多い。
 


下記艦隊を持ってマルビナス(フォークランド)を占領し、イギリスの通商破壊を行うのが上策かと思います。


戦艦

長門
金剛
榛名
霧島
比叡
伊勢


空母

赤城
加賀
飛龍
蒼龍
翔鶴
瑞鶴


重巡

高雄
愛宕
鳥海
摩耶
利根
筑摩


軽巡

長良
五十鈴
名取
由良
鬼怒
阿武隈


駆逐艦

陽炎
不知火
谷風
浜風
磯風
浦風

他、潜水艦60隻、補助艦多数、

燃料問題を解決する簡単な方法が有りますよ。
呂号潜水艦などの小型艦や航続距離の短い艦は駆逐艦や軽巡にワイヤーロープで引っ張ってもらうのです。そうすれば潜水艦は燃料を使わなくて済むので、航続距離を延ばせます。これで燃料問題は解決です。

ハルノートに書かれてあることはもっともなことで、その通り実行しても何も問題ないのではないのでしょうか?

日本は中国から撤退できて、膨大な戦費負担が無くなり財政赤字を減らすことができます。それに禁輸が解除されアメリカとの輸出入もできるようになるわけです。もちろん石油の輸入も可能になります。
 


ですから国会を解散して総選挙を行うのです。選挙の争点はハルノートを受け入れて中国から撤退するかしないのかです。

それによって決まったことなら国民も従うでしょう。国民に正しい情報を知らせれば、賢明な日本人は正しい結論を出すでしょう。

問題は官僚達が責任を逃れるため、正しい情報を出さないことです。なにしろ軍部は大本営発表の嘘八百が好きですから。

つまり何度も言うように当時の陸海軍首脳は現在の官僚と同じくウマシカだったのです。

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第21回衆議院議員総選挙(だい21かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1942年(昭和17年)4月30日に行われた日本の帝国議会(衆議院)議員の選挙である。太平洋戦争(大東亜戦争)下で行われた唯一の国政選挙であり、後に翼賛選挙(よくさんせんきょ)と呼ばれるようになった。

東條英機内閣
投票率
 83.16% (前回比+9.85%)

党派別獲得議席
政党名 議席数 議席内訳
翼賛政治体制協議会
推薦 381
非推薦 85
合計 466


1937年の前回総選挙で選出された衆議院議員の任期は1941年の衆議院議員任期延長ニ関スル法律によって1年延長の措置がとられていた。対米英戦時下であり、万が一にも反政府的勢力の伸張をみれば敵国に「民心離反」と喧伝される虞もある、等の理由から任期の再延長を求める声もあったが、これを契機に旧来の政党色を排除して軍部に協力的な政治家だけで議会を占め、翼賛体制を強化する好機との意見がその懸念を凌駕した。

そこで内務省のいわゆる「革新官僚」から、既に一部の地方の首長や議員に対して行われていた政府や軍の主導(表向きは「大政翼賛会」)による「推薦候補」制度を導入して官民一体の支援を行い、国策に忠実な議員のみによって形成される新しい議会制度を確立するという、自由選挙に代わる新しい選挙原理を導入すべきであるとの提案が行われて、実施されることとなった。

推薦を受けた候補者は選挙資金(臨時軍事費として計上)の支給を受け、更に軍部や大日本翼賛壮年団(翼壮)をはじめとする様々な団体から支援を受け選挙戦でも有利な位置に立ったのに対し、推薦を受けられなかった候補者は(有力な議員や候補者であっても)立候補そのものを断念させられた場合や、選挙運動において候補者や支持者に対して有形無形の干渉を受けたケースが知られており、全体として選挙の公正さに著しく欠けるものだった。

もっとも、全ての都道府県で等しく選挙干渉がなされたわけではない、とする研究も存在する。そこから、日本以外の選挙についても与党または親与党(親政府)の候補しか出馬を許されない、あるいは反政府候補が選挙妨害を受ける選挙についても翼賛選挙と表現されることがある。

協議会を中心とした軍官民の協力体制に加えて当時はまだ日本軍優勢で戦況が進んでいた事も追い風となったこともあり、全国平均83.1%(1930年の濱口内閣の総選挙の投票率には0.2ポイント及ばず)という高投票率に支えられて、協議会推薦の候補者は461人中381人が当選し、全議席の81.8%を獲得。

その一方で、非推薦の候補者も85人が当選し、非推薦候補の得票を合計すると35%近い得票を集めた。非推薦候補の中には戦後の政局を動かすキーマンが少なからずいた。また、非推薦で立候補して落選した候補者も、戦後の公職追放令により現職議員が多数追放されたため、追放された政治家に代わって戦後政界でその存在を高めたものも多かった。なお、半数余りは前職議員の再選であり、旧来の政党政治を排除という目的は完全には果たされなかった。

また、鹿児島県第二選挙区の選挙は、昭和20年3月1日の大審院判決により無効とされた。大審院第三民事部(吉田久裁判長、陪席判事は森田豊次郎・武富義雄・松尾實友・梶田年)は鹿児島県第二選挙区において推薦候補者を当選させようとする不法な選挙運動が全般かつ組織的に行われた事実を認定し、「自由で公正な選挙ではなく、規定違反の選挙は無効となる旨を定めた衆議院議員選挙法第八十二条に該当する」として選挙のやり直しを命じるとともに「翼賛選挙は憲法および選挙法の精神に照らし大いに疑問がある」と指摘して国を厳しく批判した。

この判決の写しは残っていたが原本は大審院が空襲を受けた際に焼失したとされ、戦後編纂された大審院民事判例集にも掲載されなかったことから「幻の判決文」となっていたところ、2006年夏に原本が発見され、2006年8月10日、NHK等で報道された。

戦後の最高裁も出していない国政選挙の無効判決を、戦時中の大審院が出していた事は、注目に値する。
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http://www.geocities.jp/eiji96301045/yusousendan.htm
太平洋での日本の輸送船の喪失量
2600隻843万総トン
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これだけの船が沈められる前はあったのですから、マルビナスに行くには十分です。
戦争中に作られた船は、100万トンか200万トンでしょう。
残りの600万トンから700万トンは戦前からあったものと思います。
マルビナス作戦に必要な船は多くて100万トンでしょう。残りは民需用として使えるわけですから問題ないかと。
ですからアメリカとは戦わないと申し上げているのです。アメリカがマルビナスから撤退しないと宣戦布告すると言ってきたら撤退するのですから。
ここは専門家のコミュではないので、ウィキでも良いかと思います。もしウィキが間違っていたら訂正してください。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/5215/rsbc3.htm

rsbc3

さて、3巻といえば、しょっぱなから通商破壊作戦が話題になっていますね。そこで、今回は戦時標準船について話しましょう。

日本の造船は、昭和31年商船の建造では世界最大になった。これは、戦争に敗れてから僅か10年目に達成した偉業である。

それを達成できた原因の一つに、戦時中に5.5億円以上を造船所に投資した(工場等7億円)ことがある。物量国アメリカの、リバティー船のごとき大量生産は望むべくもなかったが、それでもわが国が戦争中360万トンもの造船をなし得たことは物資不足の時代にあって驚異的な事と言える。

そのような商船建造をさせたのは、ひとえに戦時中の恐るべき船舶喪失にある。
開戦当初638.4万総トンの船腹量はS・18年10月には500万総トン、S・19年2月には400万総トン、同年9月には300万総トン、翌1月には200万総トン、終戦時138万総トンとなり、日本商船隊は壊滅したのであった。

戦争当時、技術者として、高校を卒業したばかりの私の祖父は朝鮮の元山で焼玉エンジンの製作をしていたそうです。ある程度の規模の造船所が軒並み計画造船に組み込まれるなか、植民地の小型船工場にまで動員がなされたんですねぇ。

戦時中の船舶喪失量883万総トンの多くは、機雷と潜水艦によるものであった。保有量に対する喪失率はS・17年8月までは1%前後と、開戦時の予想と大して違わなかったが、ガダルカナル戦が流れを変えたのだった。

太平洋戦争当時の日本の民間造船所能力の30%程度が戦闘艦建造にあてられていた。それでは、商船建造は50万総トン程度が限界である(S・17年度造船量実績は142隻40万トン)。S・18年からの敵潜水艦の跳梁で、船腹が激減するまでもなく、既に造船所建造は始まっていた。


1942年から1945年までに建造された戦時標準船の隻数は、最終的に1340隻338万総トンに達した。

日本海事振興会刊 戦時造船史小野塚一著に詳しくかいてあります。

wikiについては、私は一応信用できると思っています。
私は人間の善意を信じる人間ですから。
真珠湾攻撃のようなことをして、アメリカに日本側から宣戦布告しないことです。アメリカが宣戦布告して来たら、ハルノートを受け入れ中国から撤退すると言えば良いのです。
wikiであれ、何であれ、書いてあることが間違いならソースを上げて遠慮なく批判して下さい。根拠有る批判は歓迎します。
陸軍を説得する材料が無いと陸軍を説得できないということです。
マルビナス作戦がアメリカの参戦によって失敗するなら、それが陸軍を説得する材料になるのです。
マルビナスから撤退するだけなら、まだ戦死者も余り出て無いですから国民の理解も得られると思います。

当時のアメリカ映画を国民に公開してアメリカの印象を良くすれば良いのです。
例えば「風と共に去りぬ」とか「オズの魔法使い」とか。
1)ハルノートは受け入れず、マルビナスを占領してイギリスと戦争する。

2)その結果、アメリカが宣戦布告して来たら、マルビナスから撤退してハルノートを受け入れるということです。
マルビナス作戦を実行して、アメリカに宣戦布告されて、海軍がマルビナスから引き揚げれば、日本国内の石油はほとんど無くなります。

陸軍が戦争を続けたくてもできなくなります。日本国内では物資が不足して陸軍に対する批判が高まるので、東条内閣を解散に追い込み総選挙をすれば良いのです。例え陸軍が翼賛選挙をしても戦争反対派が勝つでしょう。
ハルノートを受け入れるだけではなくて、ドイツとイタリアに宣戦布告するのです。小早川秀秋です。そうすればルーズベルトやチャーチルも徳川家康のように許してくれるでしょう。
国民がそんな陸軍には付いて行きませんよ。東京大空襲とかされてアメリカ憎しになってれば別ですが、まだ誰もアメリカ人に殺されてないのですから。
日本国民は正しい情報を教えられれば正しい判断ができる国民です。
ソ連は太平洋戦争末期、不可侵条約を破って日本に攻め込み、北方領土を占領し、60万人もの日本人を強制労働させて、6万人もの犠牲者を出させていますよ。
結局、勝てば官軍なのではないでしょうか。
日本人は説明すれば分かってくれる国民です。自分を客観的に見れるんです。あなたとは違うんです。

アメリカと戦争しても勝てないことを数字を上げて説明すればいいのです。
日本海軍にもまだ飛行機を飛ばす燃料位は残ってますよ。それにアメリカは日本に構っている暇は無いですよ。ヒットラーと戦わなければならないのですから。
今でもチベットや東トルキスタンやチェチェンなどを侵略する腹黒い国は有るということです。

日本がヒットラーを裏切ったって褒められこそすれ非難されることは有りません。
当時、イギリスは北アフリカでロンメルと戦っていました。イギリス軍への補給は南アフリカのケープタウンを回って運ばれていたのです。ですから日本がマルビナスを拠点に通商破壊すればロンメルが勝つ可能性が高いのです。

ロンメルが勝てば中東の石油が手に入ります。
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防衛研究所戦史部主任研究官の荒川憲一氏

 海上輸送力の戦い
http://www.nids.go.jp/dissemination/kiyo/pdf/bulletin_j3-3_3.pdf

 前述の甲支隊4隻は、6月、初めの1週間で12隻、52,840総トンの商船をモザンビーク海峡で撃沈した。これを潜水艦1隻当り1ケ月に換算すると12隻、6万総トンの撃沈能力があることになる。英国側の統計資料によると、当時この海域には月当り80~90隻(40万総トンから45万総トン)の連合国船舶が航行していた36。潜水艦1隻当りの撃沈能力が変わらないと仮定すれば(一般的に連合国側はそのような損害がでれば、即座に様々な対策を措置するので、撃沈能力が低下していくであろうが)、7隻から10隻の潜水艦をこの海域に常続的に配備しておけば、この補給動脈はほぼ切断されることになる。この数の潜水艦を常続的に配置しておくためには、この作戦には3個単位の潜水戦隊21隻から30隻充当しなければならない。日本は開戦時、60隻の潜水艦を保有していたので稼動率などを考慮すれば日本海軍の潜水艦隊全力の作戦とならざるをえないであろう。その意味でも、東の太平洋正面は防勢に転ずる「東守西攻」戦略は基本的前提として欠かせない。

 また、米国の造船実績は1942年には5,393,000総トンで月当り450,000総トンであった。

(この実績は富岡課長の報告に示された海軍軍令部の米国の造船力見積もり、月25万総トンの約1.8 倍であるけれども)白紙的にはこのインド洋正面での日本の潜水戦隊による通商破壊戦による連合国商船の撃沈量は米国の造船量に匹敵する。

 しかし、ここで重要な点は、撃沈量が建造量に迫るということにあるのではなく、この補給ルートをこの時期に切断するということにある。つまり、1942年の上半期に、このルートでインド洋地域(中東、ペルシャ湾、インド)に英国と北アメリカから連合国の船舶により戦車2,415両、航空機 1,969機が補給されていたのである。また同期間、英国からこの地域に海上補給された車両は44,425 両であり、北アメリカからは81,470 両がこのルートで補給されていたしたがって、もしこの補給動脈切断作戦が成功していたら、アフリカ戦線と東部戦線の戦況は変わっていた可能性が高い。

アメリカが参戦して来るまではドイツの味方をしていて、アメリカが参戦してきたら小早川秀秋になるのです。

そこでアメリカと交渉するのです。アメリカだって悪い取引ではないのですから乗ってくるでしょう。

アメリカとは未だ戦争してないし、戦死者も出してないのですから十分取引可能です。

まず日本はアメリカから石油を貰う。そして日本海軍をイギリスの為に大西洋に派遣する。日本陸軍は北アフリカに派遣してロンメルと戦う。この条件で十分でしょう。この条件にアメリカが乗らなかったらアメリカはホース&ディアですよ。
朝鮮や台湾は独立させれば良いでしょう。遅かれ早かれそうなるでしょうから。
早い方が良いですよ。持ってても金がかかるだけですから。ついでに南洋諸島も手放せば良いでしょう。戦後の日本は植民地とやらを手放して成長したのです。
戦後はアメリカとソ連の冷戦になります。当然アメリカは日本を味方につけたいので、日本を武装解除なんかしませんよ。
しかし日本は利用価値が有るのです。アメリカの味方として使えるのに使わない理由が有りません。日本をドイツとの戦いに使えば、それだけアメリカ兵の死者を減らせるのですから。
当時の日本は経済封鎖されてましたから、アメリカ航路も東南アジア航路も無く、船が余っていたのです。釜山と日本を結ぶ航路だけならそんなに船も石油も要りません。

ですからマルビナスを拠点にイギリスの通商破壊をすれば、例えアメリカが参戦しなくてもイギリスは有利な条件で日本と交渉してくれるでしょう。
ですからルーズベルトはヒットラーに勝つためなら悪魔とも手を結ぶような人間なのです。

当然、日本と手を結ぶのも何ともないでしょう。
マルビナスに行き、アメリカが参戦しなければ、ドイツの味方をして中東の石油が手に入り、アメリカが参戦すれば小早川秀秋になって、戦勝国になれるからです。

陸軍と国民にはアメリカの言うことを聞かなければ、石油が無いのでどうにもならないと説得すれば良いのです。
マルビナスに行ける船は十分有りますよ。

全て使うとは言ってないですよ。国内産業を1年位維持する分は残しておくのです。マルビナス作戦は一年間だけやれば北アフリカの戦争の決着がつくからです。
日本国民は自分を客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです。
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http://www5a.biglobe.ne.jp/~nkgw/history33.htm
開戦前日の石油備蓄は4300万バレル
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ですから、この半分もあれば十分なのです。
連合国に参戦できる状況ではなかったのです。当時の日本はイギリスだけに宣戦布告するか、それともイギリスとアメリカに宣戦布告するか、の選択しか無いと考えていたのです。それが1941年11月の状況だったのです。
1941.12.8真珠湾を攻撃するのではなく、マルビナス(フォークランド)を攻撃占領した場合、アメリカは日本に宣戦布告しただろうか?

アメリカが日本に宣戦布告するのは五分五分だろう。アメリカがどこの国からも宣戦布告されてないのに宣戦布告することができるなら、イギリスとフランスがヒットラーのドイツに宣戦布告した時、一緒にドイツに宣戦布告すれば良かったのだ。

そうすればヒットラーは政権の座から引きずり降ろされただろう。少なくとも独ソ戦は無かったろうしフランスが占領されることも無かったろう。つまり第二次大戦は小規模なものとなり死傷者の数を大幅に減らすことができただろう。

マルビナスを占領してもアメリカが参戦しないなら日本海軍はマルビナスを拠点に潜水艦による通商破壊でイギリスを追い詰め、イギリスを交渉の場に引きずり出し日本の要求を飲ませることができる。

日本はアメリカと戦争しても勝てないので、もしアメリカが日本に宣戦布告してきたらマルビナスから撤退すれば良い。アメリカに損害を与えているわけではないのでアメリカとはすぐ講和できるだろう。撤退する日本海軍をアメリカ海軍が攻撃するとは思えない。アメリカの要求を受け入れ撤退しているのに、攻撃して損害を出すのはつまらないからだ。

マルビナス作戦で多量の石油を消費した日本は中国との戦争を続けることができず、中国から撤退するしか無い。陸軍も石油が無いので反対できない。こうして日中戦争は終わり平和になる。

つまり真珠湾を攻撃するよりマルビナスを占領した方が良かったということだ。このことに気付かなかった帝国海軍作戦会議室の連中はウマシカだったと言わざるを得ない。

このトピは1941年の帝国海軍作戦会議室だと思っていただきたい。そこで真珠湾攻撃に代わるマルビナスの攻撃占領という案が出された。帝国海軍を真珠湾に差し向けるべきなのか、それともマルビナスか?

感情的に反論したり、けなしたりするのではなく、良く考えた合理的な反論を期待する。ちょうど将棋や囲碁の検討会のように、お互いの手を批判し合いながら良い手を研究できれば良いと思う。
 

補給は無しです。帰りの分と、一年間駐留する分の食糧と燃料を持って行きます。
 

マルビナスを攻撃占領すれば対米戦を回避できる可能性が有ります。

アメリカに参戦するだけの根性が有るなら、とっくにヒットラーに宣戦布告していたでしょう。アメリカという国は日本に真珠湾を攻撃されて、けつを蹴り飛ばされるまで戦争から逃げ回っていた臆病者、卑怯者なのです。

ハルノートは中国から撤退すれば日本に石油を禁輸するようなことはしないと書かれてあるわけで、もっともなことだと思います。

マルビナスはアメリカ領ではないからです。つまりアメリカが攻撃されたわけではないからです。
マルビナスに物資を運んだ船は日本にすぐ帰国させるのですから、日本に船が足りなくなるということはありません。それに日本は経済封鎖されていて船は余っているのです。

輸送船は十分有ります。
マルビナスには港も有ります。
修理船も持って行きます。一年間位なら運用もできます。
太平洋の島は放棄します。下手に抵抗すると住民の死傷者が増えるだけなので。

戦争の準備が整っていなかったのはどこの国でも同じです。イギリスもフランスもドイツだって整ってなかったのです。ドイツ海軍は戦争が始まるのはもっと先だと思っていて、潜水艦の数も全く足りてなかったのです。

アメリカは自分の方からは宣戦布告できないので、わざと日本を挑発して日本から宣戦布告させるようにしたのです。日本はその挑発に乗るべきではなかったのです。しかし日本は松の廊下の浅野匠の守のように我慢できず吉良上野介の挑発に乗ってしまった。結果、これが日本を潰すことになったのです。

太平洋戦争で沈んだ日本の船は843万トンです。つまり戦争前はこれだけの船が有ったのです。
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http://www.geocities.jp/eiji96301045/yusousendan.htm
日英米輸送船

連合国の輸送の要

大西洋では、太平洋を遥かに上回る輸送船が沈んだ。
枢軸側が失った船舶は、
ドイツが700隻324万総トン、
イタリアが600隻393万総トン、
合計1300隻717万総トンであった。

太平洋での
日本の喪失量2600隻843万総トンと
合計3900隻1560万総トンに上った。

連合国の米英はというと、更に大量の船舶を失っている。
イギリスは2426隻1133万総トン、
他の連合国が2724隻1024万総トン、
合計5150隻2157万総トンになった。
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マルビナスを拠点にイギリスの船に攻撃を加え、通商破壊すればイギリスは日本に石油を売るから止めてくれと言ってくるでしょう。

ハル・ノートには日本が中国から撤退すれば経済封鎖はしないと書かれてあったのです。ですから中国から撤退すれば良いのです。

アメリカのルーズベルト大統領は参戦したかったのです。しかし議会と国民が反対していた。議会と国民を戦争賛成にするには日本からの攻撃が必要だったのです。
マルビナス作戦を実施して石油が無くなれば陸軍も撤退するしかなくなります。石油が無くては何もできませんから。

マルビナスの占領は海軍陸戦隊一個中隊だけでできるので、陸軍の協力は必要なく、例え陸軍が反対しても海軍だけでできるのです。

アメリカは満州から撤退せよとは言っていません。もちろん満州にアメリカ資本を入れてやる必要は有るでしょう。コカコーラとかマクドナルドとか。

帰りの分の燃料は持っていくのです。

一年間で十分なのです。あの時期、イギリスはロンメルと戦っていました。一年間補給が続かなくなるとイギリスはロンメルに負け、イギリスのモントゴメリー将軍はピストル自殺、ロンメルは中東の石油地帯を占領。ロンメルの勝利に貢献した日本はその石油を貰えます。

中国との戦争は海軍に何の相談も無く、陸軍だけの暴走で始まったのですよ。なぜ海軍が陸軍のまねをして暴走してはいけないのですか?陸軍が文句を言うなら「お前に言われたくない」と言えば良いのです。

当時の日本は多数決で決まる民主主義の国では有りません。
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防衛研究所戦史部主任研究官の荒川憲一氏

 海上輸送力の戦い
http://www.nids.go.jp/dissemination/kiyo/pdf/bulletin_j3-3_3.pdf

 前述の甲支隊4隻は、6月、初めの1週間で12隻、52,840総トンの商船をモザンビーク海峡で撃沈した。これを潜水艦1隻当り1ケ月に換算すると12隻、6万総トンの撃沈能力があることになる。英国側の統計資料によると、当時この海域には月当り80~90隻(40万総トンから45万総トン)の連合国船舶が航行していた36。潜水艦1隻当りの撃沈能力が変わらないと仮定すれば(一般的に連合国側はそのような損害がでれば、即座に様々な対策を措置するので、撃沈能力が低下していくであろうが)、7隻から10隻の潜水艦をこの海域に常続的に配備しておけば、この補給動脈はほぼ切断されることになる。この数の潜水艦を常続的に配置しておくためには、この作戦には3個単位の潜水戦隊21隻から30隻充当しなければならない。日本は開戦時、60隻の潜水艦を保有していたので稼動率などを考慮すれば日本海軍の潜水艦隊全力の作戦とならざるをえないであろう。その意味でも、東の太平洋正面は防勢に転ずる「東守西攻」戦略は基本的前提として欠かせない。

 また、米国の造船実績は1942年には5,393,000総トンで月当り450,000総トンであった。

(この実績は富岡課長の報告に示された海軍軍令部の米国の造船力見積もり、月25万総トンの約1.8 倍であるけれども)白紙的にはこのインド洋正面での日本の潜水戦隊による通商破壊戦による連合国商船の撃沈量は米国の造船量に匹敵する。

 しかし、ここで重要な点は、撃沈量が建造量に迫るということにあるのではなく、この補給ルートをこの時期に切断するということにある。つまり、1942年の上半期に、このルートでインド洋地域(中東、ペルシャ湾、インド)に英国と北アメリカから連合国の船舶により戦車2,415両、航空機 1,969機が補給されていたのである。また同期間、英国からこの地域に海上補給された車両は44,425 両であり、北アメリカからは81,470 両がこのルートで補給されていたしたがって、もしこの補給動脈切断作戦が成功していたら、アフリカ戦線と東部戦線の戦況は変わっていた可能性が高い。

地中海は通行困難ですよ。ヨーロッパにも北アフリカにもドイツ軍の空軍基地が有るのですから。 


反撃は受けませんよ。当時のイギリスは北大西洋で手一杯ですから。とても南大西洋にまで手が回りません。

最初はムルマンスク攻撃を考えていたのですが、皆さま方が遠すぎると教えていただいたので、マルビナスに変えたのです。マルビナスなら十分到達可能です。

史実では日本海軍はイギリス極東艦隊に圧勝しているのです。セイロン沖海戦など。

南アフリカで黒人に独立運動を起こさせるのです。
この帝国海軍作戦会議室での議論は作戦そっちのけで食い物の話ばかりしている人が多い。

しかし現代の我々はこれを笑うことはできない。なぜならこの食い物の話ばかりしている作戦会議よりも、1941年の帝国海軍作戦会議は劣るものだったからだ。

勝てるはずもないアメリカとの戦争を決めたのがその理由である。マルビナスではなく真珠湾を攻撃すると決めたのがその理由である。

アルゼンチン軍は味方ですよ。マルビナスをイギリスから取り戻してやったと言えば良いのです。そして一年経ったらアルゼンチンに返すと言えば良いのです。それにアルゼンチンにはドイツやイタリア移民が多いですし。

太平洋直行ルートですよ。ただしマルビナスの占領直前までイギリスに宣戦布告しません。ですからだれにも邪魔されず悠々と行くことができるのです。
私は1941年の帝国海軍作戦会議室での議論を再現しようとしたが、食い物の話ばかりしている人が多い。

しかし現代の我々はこれを笑うことはできない。なぜならこの食い物の話ばかりしている作戦会議よりも、1941年の帝国海軍作戦会議はひどいものだったからだ。

マルビナスではなく真珠湾を攻撃すると決め、勝てるはずもないアメリカとの戦争を決めたのがその理由である。

つまりこの作戦会議室で食い物の話ばかりしているウマシカな人達よりも、1941年の作戦会議室の連中はウマシカだったということだ。

ドレーク海峡を通れば良いでしょう。やることはマゼランよりもドレークのやったことに近いので。


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