忍者ブログ
mixiの書き込みの貼り付け
[26] [25] [24] [23] [22] [21] [20] [19] [18]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

ここは1941年11月の大日本帝国海軍作戦会議室です。

この頃、真珠湾への奇襲攻撃が決定されました。この奇襲攻撃自体は成功であったにもかかわらず、その後の日本は有史以来の敗戦国家となったのですから、真珠湾攻撃は誤りだったと言わざるをえません。

では他にどのような選択肢が有ったのか検討してみたいと思います。米国のハルノートを受け入れるという選択肢が唯一の日本に平和をもたらす選択肢だと思うのですが、陸軍の反対で無条件には受け入れられないとします。

つまり、何らかの軍事行動を行い、その上で陸軍に受け入れさせるということです。軍事行動といってもここは海軍の作戦会議室ですから、海軍だけでできることに限られます。

真珠湾攻撃にしても、もし途中でアメリカ軍の偵察機に艦隊が見つかれば作戦は中止されたでしょう。そして真珠湾奇襲が失敗したのでアメリカとは戦争できないということになり、ハルノートを受け入れることになったかもしれません。

真珠湾攻撃が成功したのが悔やまれます。しかし失敗した方が成功するより良いというような作戦は明らかに間違っているわけで、他にもっと良い作戦が有るはずです。そこでどのような作戦が有り得るか議論してみたいと思います。


作戦会議室ですから、作戦と関係無い話はしないで下さい。
 

真珠湾攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1941年9月、アメリカやイギリスとの関係悪化を受け、日本軍は南方作戦を具体化させていった。作戦目標は蘭印(オランダ領東インド)の石油資源の獲得であるが、制海権確保のためにアメリカ太平洋艦隊の戦力を減殺する必要があるとされた。だがこれを実現するための山本の真珠湾航空奇襲案に対して軍令部は大反対した。

この案では日本海軍の持つ正規空母の全てをハワイ作戦に投入するため、南方作戦への航空支援が手薄になる上に、万が一作戦が失敗したときには、最悪日本は虎の子の正規空母4隻を全て失い、制空権、制海権を完全に失うこととなりかねないからである。軍令部において9月に行われた兵棋演習では、敵戦艦5隻、空母2隻の撃沈破と引換えに味方正規空母4隻中3隻沈没、1隻大破で機動部隊全滅という結果に終わり、軍令部の危惧を裏付ける結果となった。

あくまで正規空母全艦投入を求める連合艦隊司令部と、軍令部の対立は日を追って激しくなり、終には作戦そのものが中止になりかねない雰囲気になりかけたが、正規空母「翔鶴」、「瑞鶴」が秋口に相次いで竣工した上、雷撃に目処が立ったことで、連合艦隊司令部が最後の賭けに出た。連合艦隊参謀黒島亀人大佐が「この作戦が認められなければ、山本長官は連合艦隊司令長官を辞職すると仰っている」と軍令部次長伊藤整一中将に言い放ち、これに驚いた軍令部総長永野修身大将は渋々作戦実施を認めた。
真珠湾攻撃参加兵力

日本海軍
第一航空艦隊 - 司令長官:南雲忠一中将、参謀長:草鹿龍之介少将

第一航空戦隊 - 南雲長官直率、空母「赤城」「加賀」

第二航空戦隊 - 司令官:山口多聞少将、空母「蒼龍」「飛龍」

第五航空戦隊 - 司令官:原忠一少将、空母「瑞鶴」「翔鶴」

艦載航空機350機(零式艦上戦闘機78機、九九式艦上爆撃機129機、九七式艦上攻撃機143機)

第三戦隊 - 司令官:三川軍一中将、戦艦「比叡」「霧島」

第八戦隊 - 重巡洋艦「利根」「筑摩」

第一水雷戦隊 - 司令官:大森仙太郎少将、軽巡洋艦「阿武隈」

第一七駆逐隊 - 駆逐艦「谷風」「浦風」「浜風」「磯風」

第一八駆逐隊 - 駆逐艦「陽炎」「不知火」「秋雲」「霞」「霰」

第二潜水隊 - 司令:今和泉喜次郎大佐、潜水艦「伊19」「伊21」「伊23」

第一補給隊 - 司令:大藤正直大佐、油槽船「極東丸」「健洋丸」「国洋丸」「神国丸」

第二補給隊 - 油槽船「東邦丸」「東栄丸」「日本丸」

特殊潜航艇5隻(甲標的5隻)他


アメリカ海軍
太平洋艦隊 - 司令長官:ハズバンド・キンメル大将

戦艦8隻(「カリフォルニア」「メリーランド」「テネシー」「アリゾナ」「オクラホマ」「ウエストバージニア」「ペンシルベニア」「ネバダ」)

重巡2隻(「ニューオーリンズ」「サンフランシスコ」)

軽巡6隻(「デトロイト」「ホノルル」「セントルイス」「ヘレナ」「ローリー」「フェニックス」)

駆逐艦30隻
その他48隻
カタリナ哨戒機14機
基地航空機399機


損害

日本海軍
空襲部隊:未帰還機29機、損傷74機、戦死55

特別攻撃隊:甲標的 未帰還5隻、戦死9(岩佐直治大尉[7]など)、捕虜1(酒巻和男少尉)


アメリカ海軍
戦艦
ネバダ:被雷1、被弾5、至近弾2。擱座。1942年4月22日サルベージ作業終了。1942年12月修理改造終了。

オクラホマ:被雷5。転覆、沈没。1943年浮揚、1944年除籍。1947年サンフランシスコへ移送中沈没。

ペンシルベニア:ドック内で被弾1。修理の際にオクラホマとアリゾナから取り外した主砲を搭載し、1942年3月艦隊に復帰。

アリゾナ:被雷1、被弾8。800kg爆弾の命中による弾薬庫(火薬庫)の爆発で艦体切断・沈没。サルベージ中止。引き上げ可能な装備を引き上げの後、除籍。その後1962年以来記念艦として在籍し現在に至る。

テネシー:被弾2(不発弾1)。損害は軽微だったが、修理と同時に大改装を施して艦隊復帰。

カリフォルニア:被雷2、被弾1、至近弾1。着底。1942年3月浮揚、1944年5月修理・大改装終了。

メリーランド:被弾2。1941年12月21日、応急修理終了。本格修理の後1942年2月艦隊に復帰。

ウエストバージニア:被雷7、被弾2(不発弾)。着底。1942年5月サルベージ作業終了。修理・大改装を実施し1944年7月に艦隊復帰。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

永野 修身(ながの おさみ、1880年6月15日 - 1947年1月5日)最終階級は元帥海軍大将・正三位・勲一等・功五級。東京裁判中に巣鴨プリズンにて獄中死。

1910年に海軍少佐に昇任した後、1913年から1915年まで米国駐在武官としてハーバード大学に留学。1920年から1922年まで再び在米国大使館付武官として米国駐在、ワシントン会議にも全権随員として参加。

開戦前には病気を理由に辞職を考えたが後任に避戦派の百武源吾や米内光政が就任する恐れがあったため、開戦派の圧力を受けて続投した。

石油が枯渇するのを恐れて対米早期開戦を主張し太平洋戦争勃発の一因をつくった(詳細は下記)。また、その手段として連合艦隊司令長官となっていた山本五十六が真珠湾攻撃作戦を薦めていった際には、投機性の高さを理由に軍令部の課員がこぞって反対する中、永野はこれを許可した。

1945年8月、終戦に際して昭和天皇が元帥府の意見を聴取した際、杉山とともに「国軍は尚余力を有し士気も旺盛」「米軍を断乎撃攘すべき」と述べた。

戦後、アメリカをはじめとする戦勝国によってA級戦犯容疑者として極東国際軍事裁判に出廷するが裁判途中の1947年1月5日、肺炎のため巣鴨プリズン内で死去した。享年66。1978年に靖国神社に合祀される。

帝国海軍の歴史上、一人で海軍三顕職(海軍大臣、連合艦隊司令長官、軍令部総長)を全て経験したのは永野のみである。

8月頃には陸軍の北進論は完全に影をひそめ、対米英欄開戦を視野に入れた『帝国国策遂行要領』が陸海軍中央の折衝を重ねて起草され、1941年9月3日、大本営政府連絡会議にて決定された。この時期、永野は開戦派であり、会議の冒頭で提案理由を次のように述べた。

帝国は各般の方面において物が減りつつあり、すなわちやせつつあり。これに反し敵側は段々強くなりつつあり。時を経れば帝国はいよいよやせて足腰立たぬ。また外交によってやるのは忍ぶ限りは忍ぶが、適当の時機に見込みをつけねばならぬ。到底外交の見込みなき時、戦を避け得ざる時になれば早く決意を要する。今なれば戦勝のチャンスあることを確信するも、この機は時と共になくなるを虞れる。

戦争については海軍は長期短期二様に考える。多分長期になると思う。従って長期の覚悟が必要だ。敵が速戦即決に来ることは希望する所にして、その場合は我近海において決戦をやり、相当の勝算があると見込んで居る。しかし戦争はそれで終わるとは思わぬ、長期戦となるべし。

この場合も戦勝の成果を利用し、長期戦に対応するが有利と思う。これに反し決戦なく長期戦となれば苦痛だ。特に物資が欠乏するので之を獲得せざれば長期戦は成立せず。

物資を取ることと戦略要点を取ることにより、不敗の備をなすことが大切だ。敵に王手と行く手段はない。しかし王手がないとしても、国際情勢の変化により取るべき手段はあるだろう。要するに国軍としては、非常に窮境に陥らぬ立場に立つこと、また開戦時機を我方で定め、先制を占める外なし、これによって勇往邁進する以外に手がない

時機を逸して数年の後に自滅するか、それとも今のうちに国運を引き戻すか、医師の手術を例に申上げれば、まだ、七、八分の見込みがあるうちに最後の決心をしなければなりませぬ。相当の心配はあっても、この大病を治すには大決心を以て国難排除を決意する外はない。思い切るときは思い切らねばならぬと思います。

天皇が「絶対に勝てるか?」と尋ねた際には、

絶対とは申し兼ねます。事は単に人の力だけでなく、天の力もあり、算があればやらなければなりませぬ。必ず勝つかときかれても奉答出来かねますが、全力を尽くして邁進する外はなかるべし。外交で対米妥結といっても、一年や二年限りの平和では駄目で、少くも十年、二十年でなければなりませぬ。一年や二年の平和では、第一国民が失望落胆すべし

会議後、永野は統帥部を代表する形で次のように「亡国」という言葉を交えて語ったという。

戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である。しかして、最後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活路を見出うるであろう。戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう。そして、いったん戦争と決定せられた場合、我等軍人はただただ大命一下戦いに赴くのみである。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

福留繁
1891年2月1日 – 1971年2月6日

最終階級 海軍中将
連合艦隊参謀長

南太平洋海戦のあとに南雲艦隊の残存機を近藤艦隊に移送するか、即時次の作戦を立案してガダルカナル島の米軍飛行場を叩かなかった事、

ガダルカナルの航空偵察不徹底により戦闘機滑走路の建設を察知しそこないヘンダーソン基地艦砲射撃で餓島航空戦力を潰しそこなったこと、

第二師団揚陸に軽空母を護衛につけなかったことは艦隊決戦論主流・陸海軍の関係不良による物であるが、結果としてガダルカナルを餓島化してしまった。

また、南太平洋海戦からエセックス級就役開始までの米空母払底状態を有効に利用し切れなかった事、

航空機が主力兵器となりつつある時期に敵勢力圏から脱出する形で生還した航空兵を粗略に扱い、ついには自爆同然の無体かつ無意味な作戦で消耗させた事(証言者の坂井三郎氏はこの件で海軍上層部に対する強い憤懣を抱いたようだ)もあったと言う批判もある。

1943年5月、海軍甲事件に伴い聯合艦隊司令長官に親補された古賀峯一海軍大将に要請され、再び聯合艦隊参謀長となる。しかし、戦況は既に日本にとって不利となりつつあり、戦術戦略の神様とまでおだてられていた福留も、実際は頭が固い人物だったらしく伝統的な艦隊決戦主義から脱却できず、有効な作戦を打ち出せないまま日月を費やすのみだった。

1944年3月31日、米海軍襲撃との誤情報の為、急遽、聯合艦隊司令部のパラオからダバオへの移転が決定され、整備も十分に終わっていない飛行艇を発進させたものの、悪天候で、搭乗していた参謀長機はセブ島沖に不時着、米軍人の指揮するゲリラ隊に捕らえられ捕虜となった(海軍乙事件)。

この時に、福留は持参していた機密書類を何一つ抵抗もせずに奪われるという大失態を犯してしまう。その後解放された福留は、海軍次官沢本頼雄中将らから事情聴取を受けることになるが、本人は徹底して容疑を否定した事と、生え抜きのエリートを重刑にかけることを忌避した海軍上層部の事なかれ体質の為に機密書類紛失の失態は不問に付され、6月に第二航空艦隊司令長官に栄転することとなった。

この為に「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)の関連情報が詳細な部分まで漏れて、敵が十分な対策を立てていたことを前線の将兵は知らないまま戦い、一方的な敗北を喫することになった。

その結果B-29による日本本土への戦略爆撃が開始されたことを考えると、あまりにも重大な背信行為であったと言えよう。

1945年1月、第十三航空艦隊司令長官兼第一南遣艦隊司令長官。同年2月、第十方面艦隊司令長官を兼任。そのままシンガポールで終戦を迎えた。

終戦後は戦犯として収監された後、1950年に復員。後に水交会理事長を勤めた。 なお、米海軍やフィリピンゲリラ達等の数々の証言にもかかわらず、死ぬまで乙事件で機密書類が奪われたことを認めなかったという。

結局、海軍乙事件については、福留中将他二番機の乗員がフィリピン住民に救助され、後に反日ゲリラに引き渡されたことを認めた。

機密書類は米側に渡っていなかったというのが戦中の軍の認識であったが、戦後米国が公開した文章の中に、機密書類が米国に渡っていた証拠が発見され、福留が自分の失敗を隠蔽していたことが明白となった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

海軍甲事件(かいぐんこうじけん)とは、1943年(昭和18年)4月18日に起こった連合艦隊司令長官 山本五十六海軍大将機撃墜事件のことを指す。日本軍の暗号がアメリカ海軍情報局に解読され、待ち伏せを受けたことから発生した。

日本:一式陸上攻撃機2機、零式艦上戦闘機9機(内3機戦闘前に引きかえす。零戦隊第二小隊の三番機を務めた柳谷飛兵長は元々6機だったと主張している。)

アメリカ:P-38戦闘機18機(内2機途中で引きかえす)

日本海軍は1943年4月7日から「い」号作戦を実行し、ソロモン諸島、ニューギニア方面の連合国艦隊に攻撃を加えた。 この作戦が一応成功し、山本長官自らショートランド島方面に視察と激励に行くことになった。 4月14日早朝、前線の各基地に4月18日の分単位の視察計画が暗号電報で通知された。

米軍はこの暗号電報を直ちに解読した。知らせは太平洋艦隊ニミッツに報告され、ニミッツは山本長官が日本で最優秀の司令官であり、より優れた司令官が登場する恐れが無いと判断し、殺害計画を進める事にし、ハルゼーに「予備計画の作成の権限の授与」を山本長官の行程と共に通知した。

しかし、山本の様な有名人を殺害すると政治的反動が日本で引き起こされるのを危惧したニミッツは、先にノックス長官とルーズベルト大統領の許可をとり、ニミッツは最終的な命令をハルゼーに出した。ハルゼーはガダルカナルの陸軍機P−38で攻撃が可能と応答してきた。

一式陸上攻撃機2機被撃墜。1番機に搭乗していた山本長官以下11名は全員戦死。2番機に搭乗していた宇垣参謀長ら3名は負傷したが救助された。

アメリカ:P-38戦闘機1機被撃墜。

事実としてアメリカは日本海軍の暗号から山本の日程を解読し、戦闘機を山本機と認識した上で待ち伏せ撃墜した。しかしアメリカはこの解読の事実を他国に悟られないよう、偶然の撃墜であったかのように発表を装っている。

撃墜の翌日、サンフランシスコ放送は山本長官の名前を出すことなく、撃墜の事実のみを簡単に報じた。同日にブーゲンビル島のカヒリ飛行場を空爆し、山本機への攻撃を一帯への攻撃の一部であるかのように見せた。

さらにニミッツは部下のハルゼーに対してすら情報源を「現地人スパイからの情報」として伝え、暗号解読の事実を秘匿している。

なお2週間前に暗号表(乱数表)を更新したばかりの日本海軍は「アメリカに暗号を解読された」という見解を取ることができず、その後の日本海軍の連敗へとつながったとされている。

しかし実はこの事件に限っては、更新前の古い乱数表を使って山本の日程表を送信するという日本海軍の対応が招いた事件であったことが、2008年9月までに機密解除されたアメリカ軍史料から判明した。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

海軍乙事件(かいぐんおつじけん)とは、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)3月31日、連合艦隊司令長官 古賀峯一海軍大将が搭乗機の墜落により殉職した事件。先の山本五十六長官搭乗機が撃墜された事件(1943年4月18日)を海軍甲事件と呼ぶことから、本件を乙事件と呼んでいる。

1944年2月のトラック島空襲の後、連合艦隊は新たな内南洋の拠点としてパラオを利用していたが、3月に連合軍の大空襲を受けた。そのため、古賀ら司令部の要員は3月31日、ミンダナオ島のダバオへ飛行艇(二式大艇)で移動を図ったが、途中で低気圧に遭遇し、行方不明となった。

一方、二番機はセブ島沖に不時着し、搭乗していた福留繁参謀長以下の連合艦隊司令部要員9名は泳いで上陸したがゲリラの捕虜となり、新Z号作戦計画書、司令部用信号書、暗号書といった数々の最重要軍機を奪われてしまった。福留等は抵抗も、破棄も、自決もしなかった。

元々フィリピンはアメリカの植民地であり、日本軍の軍政が上手く行かずにフィリピンの経済にマイナスの影響しか及ぼさなかったこともあって、住民の感情はどちらかといえば親米的であった。

そのためアメリカ軍は日本の支配が続いていた間、潜水艦での連絡員を送り込むなどして現地のゲリラと連携し、その組織化に手を貸していた。福留以下は後日解放されたものの、作戦計画書等の機密文書はのちにゲリラからアメリカ軍の手に渡った。ブリスベーン郊外の連合国軍翻訳通訳局で翻訳された。新Z号作戦計画書から、マリアナ防衛作戦に参加する兵力、航空機や艦船の数、補給能力、指揮官の名前等が米軍に知られる所となったと言う。


カール・ソルバーグは著書の冒頭にて「情報に関する一般的な仕事とは、敵の全てを知って、その知った事柄をどう解釈するか」であることを述べている。カールはこの戦いの時、第3艦隊司令部のスタッフとしてニュージャージー(USS New Jersey, BB-62 )に乗組んでおり、彼の同室者だった情報士官のハリスコックス大尉は計画書を別の観点から分析していた。

ハリスコックスは第3艦隊の他のスタッフほど航空戦を経験してなかったため、航空機への過度な重み付けがなく、水上艦の動きに注目した。その結果24日の夜、日本艦隊の本当の目的が栗田艦隊による輸送船団攻撃であるという結論に達した。彼は上司の情報参謀マリオン・チーク大佐にこの検討結果を伝え、チーク大佐は司令部の他の面々と作戦行動の変更を求めて掛け合ったが、ハルゼーは就寝中であり、司令部の中では航空参謀ホレスト・モルトン大佐などの声望が大きく、チークの司令部内での影は薄かった。

このため、モルトンはこの推測をぞんざいに扱い、作戦行動に反映されなかった。25日朝、サマール沖で護衛空母群が栗田艦隊の攻撃を受け、その報告により司令部は騒然となった。その後、第7艦隊司令官のトーマス・C・キンケイド中将による救援要請や、それを受けたチェスター・ニミッツからの電文などが続々着電し、第3艦隊は栗田艦隊追撃の為にサンベルナルジノ海峡に向け反転した。靡下の第34、第38の各任務部隊に反転を指令する電文を起草したのはモルトンであった。

こうしてレイテ沖海戦においても、鹵獲した新Z号作戦計画書は有効に使われなかった。戦後カールが書いた『決断と異議 レイテ沖のアメリカ艦隊勝利の真相』を訳した高城肇は訳者あとがきで「アメリカ艦隊の作戦行動に影響を与えたという事実は見当たらない」と述べている。

ただし鹵獲された書類は上述のように新Z号作戦計画書以外にもあり、その後も日本本土空襲などで活用された。暗号書類は戦後公開されたアメリカの公文書の中から発見されている。

福留は海軍上層部の擁護もあり、軍法会議にかけられる事も、予備役に退かされる事もなく、その後も第二航空艦隊司令長官としてレイテ沖海戦に参陣するなど海軍内の要路に留まった。戦後は連合軍に一時期収監されるものの無事復員し、結局事件直後からその最期まで軍機を奪われた事を認めようとはしなかった(もっとも、この理由には、奪われた計画書類が具体的にどのような形で利用されたか、日本側からの取材のみでは、世間一般に十分に明らかにならなかった事もある。

例えば吉村昭とアメリカ軍関係者ではアメリカ軍に渡った後の利用状況の詳述度合いに差がある)。戦後、海軍は身内に甘い体質を持つと批判されたが、その理由として本件を挙げる評者も多い。
 


下記艦隊を持ってマルビナス(フォークランド)を占領し、イギリスの通商破壊を行うのが上策かと思います。


戦艦

長門
金剛
榛名
霧島
比叡
伊勢


空母

赤城
加賀
飛龍
蒼龍
翔鶴
瑞鶴


重巡

高雄
愛宕
鳥海
摩耶
利根
筑摩


軽巡

長良
五十鈴
名取
由良
鬼怒
阿武隈


駆逐艦

陽炎
不知火
谷風
浜風
磯風
浦風

他、潜水艦60隻、補助艦多数、

燃料問題を解決する簡単な方法が有りますよ。
呂号潜水艦などの小型艦や航続距離の短い艦は駆逐艦や軽巡にワイヤーロープで引っ張ってもらうのです。そうすれば潜水艦は燃料を使わなくて済むので、航続距離を延ばせます。これで燃料問題は解決です。

ハルノートに書かれてあることはもっともなことで、その通り実行しても何も問題ないのではないのでしょうか?

日本は中国から撤退できて、膨大な戦費負担が無くなり財政赤字を減らすことができます。それに禁輸が解除されアメリカとの輸出入もできるようになるわけです。もちろん石油の輸入も可能になります。
 


ですから国会を解散して総選挙を行うのです。選挙の争点はハルノートを受け入れて中国から撤退するかしないのかです。

それによって決まったことなら国民も従うでしょう。国民に正しい情報を知らせれば、賢明な日本人は正しい結論を出すでしょう。

問題は官僚達が責任を逃れるため、正しい情報を出さないことです。なにしろ軍部は大本営発表の嘘八百が好きですから。

つまり何度も言うように当時の陸海軍首脳は現在の官僚と同じくウマシカだったのです。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

第21回衆議院議員総選挙(だい21かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1942年(昭和17年)4月30日に行われた日本の帝国議会(衆議院)議員の選挙である。太平洋戦争(大東亜戦争)下で行われた唯一の国政選挙であり、後に翼賛選挙(よくさんせんきょ)と呼ばれるようになった。

東條英機内閣
投票率
 83.16% (前回比+9.85%)

党派別獲得議席
政党名 議席数 議席内訳
翼賛政治体制協議会
推薦 381
非推薦 85
合計 466


1937年の前回総選挙で選出された衆議院議員の任期は1941年の衆議院議員任期延長ニ関スル法律によって1年延長の措置がとられていた。対米英戦時下であり、万が一にも反政府的勢力の伸張をみれば敵国に「民心離反」と喧伝される虞もある、等の理由から任期の再延長を求める声もあったが、これを契機に旧来の政党色を排除して軍部に協力的な政治家だけで議会を占め、翼賛体制を強化する好機との意見がその懸念を凌駕した。

そこで内務省のいわゆる「革新官僚」から、既に一部の地方の首長や議員に対して行われていた政府や軍の主導(表向きは「大政翼賛会」)による「推薦候補」制度を導入して官民一体の支援を行い、国策に忠実な議員のみによって形成される新しい議会制度を確立するという、自由選挙に代わる新しい選挙原理を導入すべきであるとの提案が行われて、実施されることとなった。

推薦を受けた候補者は選挙資金(臨時軍事費として計上)の支給を受け、更に軍部や大日本翼賛壮年団(翼壮)をはじめとする様々な団体から支援を受け選挙戦でも有利な位置に立ったのに対し、推薦を受けられなかった候補者は(有力な議員や候補者であっても)立候補そのものを断念させられた場合や、選挙運動において候補者や支持者に対して有形無形の干渉を受けたケースが知られており、全体として選挙の公正さに著しく欠けるものだった。

もっとも、全ての都道府県で等しく選挙干渉がなされたわけではない、とする研究も存在する。そこから、日本以外の選挙についても与党または親与党(親政府)の候補しか出馬を許されない、あるいは反政府候補が選挙妨害を受ける選挙についても翼賛選挙と表現されることがある。

協議会を中心とした軍官民の協力体制に加えて当時はまだ日本軍優勢で戦況が進んでいた事も追い風となったこともあり、全国平均83.1%(1930年の濱口内閣の総選挙の投票率には0.2ポイント及ばず)という高投票率に支えられて、協議会推薦の候補者は461人中381人が当選し、全議席の81.8%を獲得。

その一方で、非推薦の候補者も85人が当選し、非推薦候補の得票を合計すると35%近い得票を集めた。非推薦候補の中には戦後の政局を動かすキーマンが少なからずいた。また、非推薦で立候補して落選した候補者も、戦後の公職追放令により現職議員が多数追放されたため、追放された政治家に代わって戦後政界でその存在を高めたものも多かった。なお、半数余りは前職議員の再選であり、旧来の政党政治を排除という目的は完全には果たされなかった。

また、鹿児島県第二選挙区の選挙は、昭和20年3月1日の大審院判決により無効とされた。大審院第三民事部(吉田久裁判長、陪席判事は森田豊次郎・武富義雄・松尾實友・梶田年)は鹿児島県第二選挙区において推薦候補者を当選させようとする不法な選挙運動が全般かつ組織的に行われた事実を認定し、「自由で公正な選挙ではなく、規定違反の選挙は無効となる旨を定めた衆議院議員選挙法第八十二条に該当する」として選挙のやり直しを命じるとともに「翼賛選挙は憲法および選挙法の精神に照らし大いに疑問がある」と指摘して国を厳しく批判した。

この判決の写しは残っていたが原本は大審院が空襲を受けた際に焼失したとされ、戦後編纂された大審院民事判例集にも掲載されなかったことから「幻の判決文」となっていたところ、2006年夏に原本が発見され、2006年8月10日、NHK等で報道された。

戦後の最高裁も出していない国政選挙の無効判決を、戦時中の大審院が出していた事は、注目に値する。
____________________________________
http://www.geocities.jp/eiji96301045/yusousendan.htm
太平洋での日本の輸送船の喪失量
2600隻843万総トン
____________________________________

これだけの船が沈められる前はあったのですから、マルビナスに行くには十分です。
戦争中に作られた船は、100万トンか200万トンでしょう。
残りの600万トンから700万トンは戦前からあったものと思います。
マルビナス作戦に必要な船は多くて100万トンでしょう。残りは民需用として使えるわけですから問題ないかと。
ですからアメリカとは戦わないと申し上げているのです。アメリカがマルビナスから撤退しないと宣戦布告すると言ってきたら撤退するのですから。
ここは専門家のコミュではないので、ウィキでも良いかと思います。もしウィキが間違っていたら訂正してください。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/5215/rsbc3.htm

rsbc3

さて、3巻といえば、しょっぱなから通商破壊作戦が話題になっていますね。そこで、今回は戦時標準船について話しましょう。

日本の造船は、昭和31年商船の建造では世界最大になった。これは、戦争に敗れてから僅か10年目に達成した偉業である。

それを達成できた原因の一つに、戦時中に5.5億円以上を造船所に投資した(工場等7億円)ことがある。物量国アメリカの、リバティー船のごとき大量生産は望むべくもなかったが、それでもわが国が戦争中360万トンもの造船をなし得たことは物資不足の時代にあって驚異的な事と言える。

そのような商船建造をさせたのは、ひとえに戦時中の恐るべき船舶喪失にある。
開戦当初638.4万総トンの船腹量はS・18年10月には500万総トン、S・19年2月には400万総トン、同年9月には300万総トン、翌1月には200万総トン、終戦時138万総トンとなり、日本商船隊は壊滅したのであった。

戦争当時、技術者として、高校を卒業したばかりの私の祖父は朝鮮の元山で焼玉エンジンの製作をしていたそうです。ある程度の規模の造船所が軒並み計画造船に組み込まれるなか、植民地の小型船工場にまで動員がなされたんですねぇ。

戦時中の船舶喪失量883万総トンの多くは、機雷と潜水艦によるものであった。保有量に対する喪失率はS・17年8月までは1%前後と、開戦時の予想と大して違わなかったが、ガダルカナル戦が流れを変えたのだった。

太平洋戦争当時の日本の民間造船所能力の30%程度が戦闘艦建造にあてられていた。それでは、商船建造は50万総トン程度が限界である(S・17年度造船量実績は142隻40万トン)。S・18年からの敵潜水艦の跳梁で、船腹が激減するまでもなく、既に造船所建造は始まっていた。


1942年から1945年までに建造された戦時標準船の隻数は、最終的に1340隻338万総トンに達した。

日本海事振興会刊 戦時造船史小野塚一著に詳しくかいてあります。

wikiについては、私は一応信用できると思っています。
私は人間の善意を信じる人間ですから。
真珠湾攻撃のようなことをして、アメリカに日本側から宣戦布告しないことです。アメリカが宣戦布告して来たら、ハルノートを受け入れ中国から撤退すると言えば良いのです。
wikiであれ、何であれ、書いてあることが間違いならソースを上げて遠慮なく批判して下さい。根拠有る批判は歓迎します。
陸軍を説得する材料が無いと陸軍を説得できないということです。
マルビナス作戦がアメリカの参戦によって失敗するなら、それが陸軍を説得する材料になるのです。
マルビナスから撤退するだけなら、まだ戦死者も余り出て無いですから国民の理解も得られると思います。

当時のアメリカ映画を国民に公開してアメリカの印象を良くすれば良いのです。
例えば「風と共に去りぬ」とか「オズの魔法使い」とか。
1)ハルノートは受け入れず、マルビナスを占領してイギリスと戦争する。

2)その結果、アメリカが宣戦布告して来たら、マルビナスから撤退してハルノートを受け入れるということです。
マルビナス作戦を実行して、アメリカに宣戦布告されて、海軍がマルビナスから引き揚げれば、日本国内の石油はほとんど無くなります。

陸軍が戦争を続けたくてもできなくなります。日本国内では物資が不足して陸軍に対する批判が高まるので、東条内閣を解散に追い込み総選挙をすれば良いのです。例え陸軍が翼賛選挙をしても戦争反対派が勝つでしょう。
ハルノートを受け入れるだけではなくて、ドイツとイタリアに宣戦布告するのです。小早川秀秋です。そうすればルーズベルトやチャーチルも徳川家康のように許してくれるでしょう。
国民がそんな陸軍には付いて行きませんよ。東京大空襲とかされてアメリカ憎しになってれば別ですが、まだ誰もアメリカ人に殺されてないのですから。
日本国民は正しい情報を教えられれば正しい判断ができる国民です。
ソ連は太平洋戦争末期、不可侵条約を破って日本に攻め込み、北方領土を占領し、60万人もの日本人を強制労働させて、6万人もの犠牲者を出させていますよ。
結局、勝てば官軍なのではないでしょうか。
日本人は説明すれば分かってくれる国民です。自分を客観的に見れるんです。あなたとは違うんです。

アメリカと戦争しても勝てないことを数字を上げて説明すればいいのです。
日本海軍にもまだ飛行機を飛ばす燃料位は残ってますよ。それにアメリカは日本に構っている暇は無いですよ。ヒットラーと戦わなければならないのですから。
今でもチベットや東トルキスタンやチェチェンなどを侵略する腹黒い国は有るということです。

日本がヒットラーを裏切ったって褒められこそすれ非難されることは有りません。
当時、イギリスは北アフリカでロンメルと戦っていました。イギリス軍への補給は南アフリカのケープタウンを回って運ばれていたのです。ですから日本がマルビナスを拠点に通商破壊すればロンメルが勝つ可能性が高いのです。

ロンメルが勝てば中東の石油が手に入ります。
__________________________________

防衛研究所戦史部主任研究官の荒川憲一氏

 海上輸送力の戦い
http://www.nids.go.jp/dissemination/kiyo/pdf/bulletin_j3-3_3.pdf

 前述の甲支隊4隻は、6月、初めの1週間で12隻、52,840総トンの商船をモザンビーク海峡で撃沈した。これを潜水艦1隻当り1ケ月に換算すると12隻、6万総トンの撃沈能力があることになる。英国側の統計資料によると、当時この海域には月当り80~90隻(40万総トンから45万総トン)の連合国船舶が航行していた36。潜水艦1隻当りの撃沈能力が変わらないと仮定すれば(一般的に連合国側はそのような損害がでれば、即座に様々な対策を措置するので、撃沈能力が低下していくであろうが)、7隻から10隻の潜水艦をこの海域に常続的に配備しておけば、この補給動脈はほぼ切断されることになる。この数の潜水艦を常続的に配置しておくためには、この作戦には3個単位の潜水戦隊21隻から30隻充当しなければならない。日本は開戦時、60隻の潜水艦を保有していたので稼動率などを考慮すれば日本海軍の潜水艦隊全力の作戦とならざるをえないであろう。その意味でも、東の太平洋正面は防勢に転ずる「東守西攻」戦略は基本的前提として欠かせない。

 また、米国の造船実績は1942年には5,393,000総トンで月当り450,000総トンであった。

(この実績は富岡課長の報告に示された海軍軍令部の米国の造船力見積もり、月25万総トンの約1.8 倍であるけれども)白紙的にはこのインド洋正面での日本の潜水戦隊による通商破壊戦による連合国商船の撃沈量は米国の造船量に匹敵する。

 しかし、ここで重要な点は、撃沈量が建造量に迫るということにあるのではなく、この補給ルートをこの時期に切断するということにある。つまり、1942年の上半期に、このルートでインド洋地域(中東、ペルシャ湾、インド)に英国と北アメリカから連合国の船舶により戦車2,415両、航空機 1,969機が補給されていたのである。また同期間、英国からこの地域に海上補給された車両は44,425 両であり、北アメリカからは81,470 両がこのルートで補給されていたしたがって、もしこの補給動脈切断作戦が成功していたら、アフリカ戦線と東部戦線の戦況は変わっていた可能性が高い。

アメリカが参戦して来るまではドイツの味方をしていて、アメリカが参戦してきたら小早川秀秋になるのです。

そこでアメリカと交渉するのです。アメリカだって悪い取引ではないのですから乗ってくるでしょう。

アメリカとは未だ戦争してないし、戦死者も出してないのですから十分取引可能です。

まず日本はアメリカから石油を貰う。そして日本海軍をイギリスの為に大西洋に派遣する。日本陸軍は北アフリカに派遣してロンメルと戦う。この条件で十分でしょう。この条件にアメリカが乗らなかったらアメリカはホース&ディアですよ。
朝鮮や台湾は独立させれば良いでしょう。遅かれ早かれそうなるでしょうから。
早い方が良いですよ。持ってても金がかかるだけですから。ついでに南洋諸島も手放せば良いでしょう。戦後の日本は植民地とやらを手放して成長したのです。
戦後はアメリカとソ連の冷戦になります。当然アメリカは日本を味方につけたいので、日本を武装解除なんかしませんよ。
しかし日本は利用価値が有るのです。アメリカの味方として使えるのに使わない理由が有りません。日本をドイツとの戦いに使えば、それだけアメリカ兵の死者を減らせるのですから。
当時の日本は経済封鎖されてましたから、アメリカ航路も東南アジア航路も無く、船が余っていたのです。釜山と日本を結ぶ航路だけならそんなに船も石油も要りません。

ですからマルビナスを拠点にイギリスの通商破壊をすれば、例えアメリカが参戦しなくてもイギリスは有利な条件で日本と交渉してくれるでしょう。
ですからルーズベルトはヒットラーに勝つためなら悪魔とも手を結ぶような人間なのです。

当然、日本と手を結ぶのも何ともないでしょう。
マルビナスに行き、アメリカが参戦しなければ、ドイツの味方をして中東の石油が手に入り、アメリカが参戦すれば小早川秀秋になって、戦勝国になれるからです。

陸軍と国民にはアメリカの言うことを聞かなければ、石油が無いのでどうにもならないと説得すれば良いのです。
マルビナスに行ける船は十分有りますよ。

全て使うとは言ってないですよ。国内産業を1年位維持する分は残しておくのです。マルビナス作戦は一年間だけやれば北アフリカの戦争の決着がつくからです。
日本国民は自分を客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです。
____________________________________
http://www5a.biglobe.ne.jp/~nkgw/history33.htm
開戦前日の石油備蓄は4300万バレル
____________________________________

ですから、この半分もあれば十分なのです。
連合国に参戦できる状況ではなかったのです。当時の日本はイギリスだけに宣戦布告するか、それともイギリスとアメリカに宣戦布告するか、の選択しか無いと考えていたのです。それが1941年11月の状況だったのです。
PR

コメント


コメントフォーム
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード
  Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字


トラックバック
この記事にトラックバックする:


忍者ブログ [PR]
カレンダー
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
フリーエリア
最新コメント
最新トラックバック
プロフィール
HN:
No Name Ninja
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
P R