ここは1941年11月の大日本帝国海軍作戦会議室です。
この頃、真珠湾への奇襲攻撃が決定されました。この奇襲攻撃自体は成功であったにもかかわらず、その後の日本は有史以来の敗戦国家となったのですから、真珠湾攻撃は誤りだったと言わざるをえません。
では他にどのような選択肢が有ったのか検討してみたいと思います。米国のハルノートを受け入れるという選択肢が唯一の日本に平和をもたらす選択肢だと思うのですが、陸軍の反対で無条件には受け入れられないとします。
つまり、何らかの軍事行動を行い、その上で陸軍に受け入れさせるということです。軍事行動といってもここは海軍の作戦会議室ですから、海軍だけでできることに限られます。
真珠湾攻撃にしても、もし途中でアメリカ軍の偵察機に艦隊が見つかれば作戦は中止されたでしょう。そして真珠湾奇襲が失敗したのでアメリカとは戦争できないということになり、ハルノートを受け入れることになったかもしれません。
真珠湾攻撃が成功したのが悔やまれます。しかし失敗した方が成功するより良いというような作戦は明らかに間違っているわけで、他にもっと良い作戦が有るはずです。そこでどのような作戦が有り得るか議論してみたいと思います。
作戦会議室ですから、作戦と関係無い話はしないで下さい。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
海軍乙事件(かいぐんおつじけん)とは、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)3月31日、連合艦隊司令長官 古賀峯一海軍大将が搭乗機の墜落により殉職した事件。先の山本五十六長官搭乗機が撃墜された事件(1943年4月18日)を海軍甲事件と呼ぶことから、本件を乙事件と呼んでいる。
1944年2月のトラック島空襲の後、連合艦隊は新たな内南洋の拠点としてパラオを利用していたが、3月に連合軍の大空襲を受けた。そのため、古賀ら司令部の要員は3月31日、ミンダナオ島のダバオへ飛行艇(二式大艇)で移動を図ったが、途中で低気圧に遭遇し、行方不明となった。
一方、二番機はセブ島沖に不時着し、搭乗していた福留繁参謀長以下の連合艦隊司令部要員9名は泳いで上陸したがゲリラの捕虜となり、新Z号作戦計画書、司令部用信号書、暗号書といった数々の最重要軍機を奪われてしまった。福留等は抵抗も、破棄も、自決もしなかった。
元々フィリピンはアメリカの植民地であり、日本軍の軍政が上手く行かずにフィリピンの経済にマイナスの影響しか及ぼさなかったこともあって、住民の感情はどちらかといえば親米的であった。
そのためアメリカ軍は日本の支配が続いていた間、潜水艦での連絡員を送り込むなどして現地のゲリラと連携し、その組織化に手を貸していた。福留以下は後日解放されたものの、作戦計画書等の機密文書はのちにゲリラからアメリカ軍の手に渡った。ブリスベーン郊外の連合国軍翻訳通訳局で翻訳された。新Z号作戦計画書から、マリアナ防衛作戦に参加する兵力、航空機や艦船の数、補給能力、指揮官の名前等が米軍に知られる所となったと言う。
カール・ソルバーグは著書の冒頭にて「情報に関する一般的な仕事とは、敵の全てを知って、その知った事柄をどう解釈するか」であることを述べている。カールはこの戦いの時、第3艦隊司令部のスタッフとしてニュージャージー(USS New Jersey, BB-62 )に乗組んでおり、彼の同室者だった情報士官のハリスコックス大尉は計画書を別の観点から分析していた。
ハリスコックスは第3艦隊の他のスタッフほど航空戦を経験してなかったため、航空機への過度な重み付けがなく、水上艦の動きに注目した。その結果24日の夜、日本艦隊の本当の目的が栗田艦隊による輸送船団攻撃であるという結論に達した。彼は上司の情報参謀マリオン・チーク大佐にこの検討結果を伝え、チーク大佐は司令部の他の面々と作戦行動の変更を求めて掛け合ったが、ハルゼーは就寝中であり、司令部の中では航空参謀ホレスト・モルトン大佐などの声望が大きく、チークの司令部内での影は薄かった。
このため、モルトンはこの推測をぞんざいに扱い、作戦行動に反映されなかった。25日朝、サマール沖で護衛空母群が栗田艦隊の攻撃を受け、その報告により司令部は騒然となった。その後、第7艦隊司令官のトーマス・C・キンケイド中将による救援要請や、それを受けたチェスター・ニミッツからの電文などが続々着電し、第3艦隊は栗田艦隊追撃の為にサンベルナルジノ海峡に向け反転した。靡下の第34、第38の各任務部隊に反転を指令する電文を起草したのはモルトンであった。
こうしてレイテ沖海戦においても、鹵獲した新Z号作戦計画書は有効に使われなかった。戦後カールが書いた『決断と異議 レイテ沖のアメリカ艦隊勝利の真相』を訳した高城肇は訳者あとがきで「アメリカ艦隊の作戦行動に影響を与えたという事実は見当たらない」と述べている。
ただし鹵獲された書類は上述のように新Z号作戦計画書以外にもあり、その後も日本本土空襲などで活用された。暗号書類は戦後公開されたアメリカの公文書の中から発見されている。
福留は海軍上層部の擁護もあり、軍法会議にかけられる事も、予備役に退かされる事もなく、その後も第二航空艦隊司令長官としてレイテ沖海戦に参陣するなど海軍内の要路に留まった。戦後は連合軍に一時期収監されるものの無事復員し、結局事件直後からその最期まで軍機を奪われた事を認めようとはしなかった(もっとも、この理由には、奪われた計画書類が具体的にどのような形で利用されたか、日本側からの取材のみでは、世間一般に十分に明らかにならなかった事もある。
例えば吉村昭とアメリカ軍関係者ではアメリカ軍に渡った後の利用状況の詳述度合いに差がある)。戦後、海軍は身内に甘い体質を持つと批判されたが、その理由として本件を挙げる評者も多い。
ハルノートに書かれてあることはもっともなことで、その通り実行しても何も問題ないのではないのでしょうか?
日本は中国から撤退できて、膨大な戦費負担が無くなり財政赤字を減らすことができます。それに禁輸が解除されアメリカとの輸出入もできるようになるわけです。もちろん石油の輸入も可能になります。
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